びんご 古城散策・田口義之

◆大可島城と村上亮康 (2)
                                       (福山市鞆町) 〈150〉

大内義隆下文写( 因島村上家文書)
 因島村上氏の鞆進出に関しては、謎も多い。
 一つは、鞆支配の根拠とされる、天文十三年(一五四四)七月三日付の大内義隆下文(因島村上家文書)だ。前にも紹介したように、この文書では「備後国沼隈郡鞆浦内」とあるはずのところが「備後国安名郡鞆浦内」となっている。しかも安名郡は「安那郡」の誤りだ。内海屈指の要港として周知されていたはずの鞆浦の郡名を、大内氏の右筆、或いは義隆がこんなにもやすやすと間違えるだろうか。
 さらに、この文書は義隆の花押が巧妙に写されているとはいえ、「写本」である。
 鞆の支配者は、戦国時代の初頭には室町幕府から備後守護に移っていた。永正四年(一五〇七)十二月、備後守護山名致豊は、沼隈郡高須の杉原右馬助、世羅郡上山の上山加賀守に、上洛する前将軍足利義稙の為に鞆・尾道で宿所を設けるよう命じた(閥閲録四〇・六七)。さらに、山名氏の後、実質的に備後を支配した尼子氏も鞆を支配した(福山志料所収文書)。
 また、「一乗山城と渡辺氏」のところで述べたように、北に山越えした山田(熊野町)の領主渡辺氏も鞆に影響力を持った国衆の一人で、天文末年(一五五三頃)には毛利氏の命で「鞆要害」の普請を行っている。若しこの時点で、村上亮康が大可島に在城していたとすれば、渡辺氏の「鞆要害」と競合するはずで、あり得ないことではないが、不自然である。
大可島城址から仙酔島を望む
 こうした様々な状況証拠からして、因島村上家文書の天文十三年七月三日付の大内義隆下文は「偽文書」と断定せざるを得ない。
 村上亮康の鞆支配が確認されるのは、天正四年(一五七六)六月の「伊勢参宮海陸之記」からである。この文書は伊予の戦国大名西園寺宣久の旅日記で、六月十四日に鞆に寄港し、二十一日まで滞在、宣久は「鞆助安」に「一礼」した。従来この「鞆助安」は鞆の有力商人と考えられてきたが、島根大学の長谷川博史氏が考察されているように、村上亮康に比定するほうが妥当である(「鞆の浦の歴史、福山市鞆町の伝統的町並に関する調査研究報告書Ⅰ」福山市教育委員会)。
 大可島に居城した亮康は、在名を取って「鞆氏」を称したようである。亮康が「鞆」を名字としたことは、先に紹介した西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」の他に、「小早川家文書」中の「天正一三年(一五八五)の「小早川家座配書立」がある。この文書は、小早川家における正月の着座順を記したもので、「上」に向かって左側の六番目に「鞆殿」すなわち、亮康の名がある。
 因島から鞆に分家した亮康は鞆氏を称したと見ていいだろう。
 亮康が鞆を領有したきっかけは今となっては不明だが、水軍を必要とした毛利氏が、因島村上氏を味方に着けるため、同氏が鞆領有の証拠とした偽文書をあえて正文書と認め、亮康に鞆の支配を任せたのであろう。その時期としては、毛利氏が因島村上氏に大きな「借り」を作った弘治元年(一五五五)九月の厳島合戦後、とするのが良いと思う。

備陽史探訪の会
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