びんご 古城散策・田口義之

◆大可島城と村上亮康 (1)
                                       (福山市鞆町) 〈149〉

大可島城址 (海上より眺望)
 福山の歴史にとって、鞆は大変重要な場所である。
 鞆は古代以来、内海水運の要港として栄えてきた。沖合いで東西から満ちてきた潮がぶつかり、潮に乗って航海してきた船は鞆で「潮待ち」「風待ち」をし、再び東西に出航して行った。歴代の為政者も、この港の掌握には力を尽くし、その結果、福山城が築かれ、福山の町が誕生した。鞆は謂わば福山のルーツの一つと言っていい。
 中世、この鞆港の押さえとして築かれ、出入りする船を監視していたのが大可島城である。
 大可島は、現在陸地とつながり、鞆港の東に突き出た岬となっているが、かつてはその名の通り「島」で、近年まで陸側は砂州で繋がり、満潮の時だけ「島」になる「陸繋島(りくけいしま)」であった(道越の地名がそれを物語っている)。
 史上に登場するのは、鎌倉時代末期のことだ。「とはずかたり」の筆者後深草院二条が乾元元年(一三〇二)、厳島参詣の途次、鞆に立ち寄った際には、ここには尼僧たちが「庵」を結んでいたという。
 この小さな小島が一躍歴史の表舞台に登場したのは、南北朝時代の康永元年(一三四二)のことであった。幕府方の攻撃を受けた伊予土居城の救援に向かった南朝軍は、逆に備後の鞆を占領し、幕府の大軍を迎え撃った。南朝方は大可島を拠点とし、小松寺を本陣とした幕府軍と旬余の攻防の後、伊予に引き上げた(太平記二四)。この時、南朝方の殿(しんがり)として大可島を守った備後服部の武士桑原一族は全滅したと伝え、その墓石とされる苔むした五輪塔が大可島城跡に建つ円福寺の門前に残っている。さらに、貞和五年(一三四九)四月には、室町幕府から中国探題に任命された足利直冬が備後国鞆浦に下向、大可島に拠って、政務を執った(太平記二七)。
大可島墓石
 南北朝時代が終わり、世の中が安定すると、大可島はしばらく歴史の表舞台から消える。
 室町幕府は、鞆に安国寺を置き、この地を準直轄領としたためである。今まで室町幕府は、軍事的経済的基盤が薄く、そのため内乱が絶えなかったといわれてきた。この考えは全く誤りではないが、最近では研究も進み、五山禅林の有した膨大な寺領群が幕府の準直轄領としての役割を果たしていたことが明らかとなった。鞆の安国寺も鞆の浦の三分の一を寺領としていたと言われ、幕府はこの安国寺を拠点として鞆を支配したと考えられる。
 大可島が、再び歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代の天文年間(一五三二~一五五五)のことであった。
 天文一三年(一五四四)七月三日、大内義隆は「備後国安名郡鞆浦内十八貫」の地を因島の村上新蔵人吉充に与えた(因島村上家文書)。吉充は大可島に弟亮康を置き、以後天正十九年(一五九一)まで、鞆浦は、海賊衆村上氏の支配するところとなった。

備陽史探訪の会
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