びんご 古城散策・田口義之

◆鞆城と足利義昭
                                      (福山市鞆町) 〈147〉

惣党神社にある足利義昭木像
 足利義昭が備後の鞆の浦に「動座」したのは、毛利氏を動かし、信長討伐の先鋒とするためであった。
 だが、毛利氏は容易に動かなかった。当主輝元の祖父元就の遺訓を守って、「天下御競望」即ち、上洛に消極的であったからである。鞆に上陸した義昭は小松寺を当座の居所とした。小松寺は義昭の先祖、尊氏が本陣を置いた所で、尊氏はここで光厳上皇の院宣を拝受し、「天下」を取った。この先例を追おうとした。
 義昭が領国の鞆に移座したことは、毛利氏を否応なく信長打倒に立ち上がらせた。義昭を受け入れたことは、反信長の旗幟を鮮明にしたのと同様であり、毛利氏も月余の逡巡の後、義昭の下知を受け入れ、義昭を擁して「上洛戦」に挑むこととなった。
 幕府再興を受け入れた毛利氏は、「御所」を造営して義昭の身の回りを整え、幕府再興が単なる名分でないことを世に示そうとした。
 毛利氏が義昭のために造営した御所は、今の古城山の西の「公方」にあったとも、古城山にあったともいう。
 現在の古城山に残る石垣は、殆どが慶長六年(一六〇一)から一一年(一六〇六)にかけて福島正則が築いた「鞆城」の遺構だが、一部にはそれより古い石垣も確認される。毛利氏が義昭のために造営した御所(鞆城)の遺構と見ていいだろう。
義昭の庭園と伝わる神明亭跡
 毛利氏は義昭を推戴するや、旗下の国人衆に、義昭の幕府に出仕するよう命じた。分国の国人衆も喜んでこの要請に応じた。国人衆は幕府が滅ぶとは思ってみないことで、何れ義昭は上洛し、幕府を再興すると考えていた。義昭に恩を売ることは、再興された幕府内での地位を高めることであり、その絶好の機会と捉えたためだ。
 実際、国人衆の歓待ぶりは毛利氏の予想をはるかに超えていた。例えば、備後山内氏の場合、名代として同名兵庫助を義昭のもとに派遣し、数度にわたり多額の銭貨を献上した。義昭の幕府に対する国人衆の奉仕は、山内氏だけでなく、安芸の平賀、天野、熊谷、石見の益田、周布、出雲の三沢、宍道氏などが確認され、その他の国人衆もその殆どが義昭の元に使者を派遣したものと考えられる。
 こうした国人衆の幕府出仕に対して、義昭も栄誉や官途の授与で応えた。山内氏は「供衆」に任ぜられ、益田氏は右衛門佐に補任された(山内首藤家文書・益田家文書など)。これらの栄誉は、彼等がかつて望んでも果たせなかったもので、彼等の自尊心を大いに満足させるものであった。
 また、遠国の諸大名も、鞆の義昭の下に使者を派遣した。越後の上杉、甲斐の武田をはじめそれは九州の島津、四国の河野、長曾我部氏など、ほぼ全国に及んでおり、義昭の「幕府」が名だけでなく、実も備えていたことが分かる。

備陽史探訪の会
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