びんご 古城散策・田口義之

◆蔀山と足利義昭
                                    (福山市西深津町) 〈146〉

蔀山神社鳥居と拝殿
 市内には、津之郷町の「御殿山」以外に、足利義昭の居館跡と伝わる場所が、もう一ヶ所残っている。西深津町の「蔀山(しとみやま)」だ。
 現地を訪ねてみると、神社の境内地となっているが、2段の平坦面からなり、確かに古い屋敷地である。
 伝承では、義昭は晩年、ここに屋敷を構え、亡くなったと言い、墓も「原」というところにあるという(西備名区)。
「義昭と親しかった連歌師紹巴は、義昭が備後で零落しているのを聞いて、太閤秀吉に取り成した。秀吉も義昭の事を気にかけていたので、毛利輝元に義昭の世話を命じた。輝元は備後の深津というところに御館を作り、5千石の知行を添えて義昭をもてなした。秀吉はまた田舎暮らしは侘しかろうと、傍で召し使っていた美女を義昭に進呈し、徒然を慰めさせた…(室町殿日記)」
 史実の上では、前回述べたように、義昭は天正一五年(一五八七)三月、赤坂で秀吉と面会し、帰京を許された。同年閏五月には、毛利輝元に書状を出し、在国中の礼を述べているから、帰京が確認される。以後、義昭が備後に再度下向したという記録は無い。
蔀山神社の境内
 深津の蔀山が義昭の居館と考えられるようになったのは、次の一文が影響しているのではなかろうか…。
「(七月)一五日(宮島を出て)それより備後の津公儀御座所に参上して、一八日朝鞆までこし侍る…(細川幽斎「九州道の記」)」
 細川幽斎は、藤孝といい、義昭の将軍就任には一方ならぬ尽力した人物であった。だが、義昭が信長と対立し、その排除を謀るようになると義昭を見限り、信長に付いた。以後、細川氏は織田、豊臣、徳川の世うまく泳ぎ、肥後熊本54万石の大大名として明治維新まで存続した。
 しかしながら幽斎は、全く義昭を見捨てたわけではなかった。最後まで室町幕府を背負った名門細川氏として、何くれと面倒を見た。この一文は、幽斎が秀吉に従って九州に下向した際の紀行文で、帰途に津之郷の義昭の御所(公儀御座所)を訪ねたことが分かる。既に義昭は帰京している筈だから、二日も滞在したのは解せないが、或いは義昭帰京後の後始末があったのかも知れない。
 「室町殿日記」は、この紀行文に「津公儀御座所」とあるのを「深津」と即断したためであろう。この書物は「日記」とあるが当時のものではなく、江戸時代になって編さんされたものである。著者が備後の事情に明るかったとは言えない。本来「津之郷」とあるべきを「深津」と誤ったと判断したい。
 なお、深津の「蔀山」が義昭の居館跡でなかったにしろ、中世にさかのぼる屋敷跡であることは間違いない。江戸時代初期、水野氏の干拓によって周辺が陸化するまで、蔀山は深津湾に東から西に突き出た岬であった。この地に海上を監視する「海賊城」が設けられていたことは、大いにありうることである。

備陽史探訪の会
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