びんご 古城散策・田口義之

◆御殿山と足利義昭
                                    (福山市津之郷町) 〈145〉

津之郷町の御殿山
 津之郷町に「御殿山」という小さな丘がある。津之郷小学校の裏山で、北の高増山系から延びた小さな尾根が平野に望む場所に位置する。
 訪ねてみると、比高二十メートルばかり、てっぺんは東西に分かれ、東が「御殿」、西が惣堂神社の境内になっている。御殿と呼ばれる場所は1反少々の広さで、今は果樹園となっている。
 小さな小山ではあるが、見晴らしはすばらしい。津之郷から山手、佐波にかけては一望の下だ。南斜面は段々畑となってふもとの民家に続いている。「なるほど」とうなるような、住むにはいい場所である。
 それにしても、「御殿」「御殿山」とはただならぬ呼び名だ。
 調べてみると、この御殿は室町幕府第一五代将軍、足利義昭の御所(将軍の屋敷を当時こう呼んだ)がこの地に営まれたことに因むようである。
 「義昭とは、突飛な…」と思われる方もあるだろうが、備後は室町幕府を開いた足利尊氏が、鞆津で光厳上皇の院宣を受け取り、「開運の地」となったと共に、最後の将軍義昭が信長に追われて逃れてきた地としても有名だ(足利氏鞆に興り、鞆に滅ぶ)。
 義昭が津之郷の地にやってきたのは、義昭が執念を燃やした「信長打倒、幕府再興」の夢がいよいよ幻に終わりつつあった時期である。義昭が備後鞆津に「動座」したのは、毛利氏を頼り、宿敵信長を討伐し、幕府を再興するためであった。天正四年(一五七六)二月、紀州の由良から備後の鞆に上陸した義昭は、当初同地の小松寺を宿所としていたが、毛利氏が義昭の意向を受け入れて、信長討伐に立ち上がると、鞆城を御所として、全国の大名に打倒信長の激を飛ばした。これが所謂「鞆幕府」である。
 ところが、最初のうちこそ調子のよかった毛利氏の動きも、摂津の荒木村重、播磨の別所長治が相次いで信長によって滅ぼされ、備前岡山の宇喜多直家が毛利を裏切り、織田氏に付くと、形勢は一気に逆転した。織田氏の部将羽柴秀吉の軍勢は、鞆と目と鼻の先、備中高松城に迫ってきた。しかも、海上を支配していた村上氏の去就が怪しくなってきた。三島村上氏の一つ来島氏は織田方に走り、本家能島村上氏も毛利氏から次第に距離を取りつつあった。
 こうなると、海上交通の拠点であった鞆の利点は欠点となり、織田方から直接攻撃される恐れが出て来た。義昭が鞆から山越えに津之郷に居所を移した理由だ。津之郷の御殿山はこの義昭のために造営された「御所」の跡と考えてよかろう。
 その時期は天正十年(一五八二)前後と考えられている。以後、天正一五年(一五八七)、京都に帰るまで、この地を本拠として、あくまで幕府再興、京都復帰を画策した。
 だが、義昭の夢は虚しいものとなっていった。本能寺の変で信長が倒れたのも束の間、天下は明智光秀を倒した秀吉のものとなり、彼の夢は潰えて行ったのである。
 天正一五年三月十二日、義昭は折から九州平定のために下向中であった秀吉と赤坂で対面した。ここで両者は年来の宿縁と解き、義昭は京都に帰ることを許された。かつてははるか下座に平伏した秀吉に頭を下げるのは苦痛であったろうが、「互いに銘作の御腰物を参らせられ」すなわち、対等の礼で迎えられたのはせめてもの慰めであった(九州動座記)。

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