びんご 古城散策・田口義之

◆一乗山城と渡辺氏 (十八)
                                      (福山市熊野町) 〈144〉

渡辺出雲守房画像
 築城以来、数々の試練を経てきた一乗山城だが、まだまだ謎は多い。一つは城主渡辺氏の末路だ。
 一般的には、最後の城主とされる四郎左衛門景が、関が原の合戦後、一乗山城を退城して浪人し、その子の勘左衛門が水野勝成に召抱えられ、自らは勝成に城下で寺地を与えられて通安寺を開いたとされる。
 だが、不思議なことに、地元に伝えられた渡辺氏の記録と、はるか長州藩に仕えた渡辺氏の記録とに、微妙な「ずれ」があるのである。
 渡辺氏の系図や伝えた文書は、今、福山城鏡櫓文書館にある故濱本鶴賓氏の「渡辺氏系図纂輯」によって、容易に知ることができる。
 それによると、景の三人の子勘左衛門、杢大夫、猪兵衛の三人が水野家に仕官し、三男が出家して日保上人となり常国寺の七世となったとある。
 だが、長州藩に仕えた渡辺氏の系図では若干異なる。同家の系図(譜録渡辺三郎左衛門)では景の子は男子が四人、女子が一人で、嫡男源助信が家を継ぎ、次男角左衛門政、三男平兵衛元正、四男勘左衛門秀となっていて、猪兵衛の名は確認できない。
 さらに、気になるのは「渡辺氏系図纂輯」では、渡辺氏存続の最大の危機であった天正十九年(1592)の一連の文書が抜け落ちていることである。
 なぜこのことが重要であるかというと、これら長州藩の渡辺氏が伝えた文書の宛名は、福山の記録では天正十六年に死去した筈の「渡辺出雲守」殿となっているからである。
 一体全体、これはどうしたことか…。考えられるのはただ一つ、関が原合戦後の混乱で、一族が離散し、長州の渡辺氏と備後の渡辺氏がそれぞれ別の伝えを持つようになったことだ。
 特に、備後の渡辺氏の系図には混乱が見られる。景の子、杢太夫は直接水野勝成に召抱えられたことになっているが、これは誤りである。
 『水野記』所収の由緒書によると、杢太夫は「先美作守様鞆に御座なされ候時、私養祖父渡辺杢太夫儀召出され、新知百五十石下され」とあり、勝成ではなく、「先美作守」すなわち、二代勝俊に召抱えられたことが判明する。
 こうしたことは、各地の国人土豪に多く見られることである。慶長五年(1600)の関が原の合戦は、備後地方の人々にとっては大変な出来事であった。それまでの数々の合戦は、確かに家の浮沈を伴い一族が離散する場合もあった。だが関が原は違っていた。毛利に従い長州へ移るか、或いは土着して別の道を歩むかによって、それぞれの運命は大きく変わったのである。また、離散した一族は再びめぐり合うことはほとんど無かった。渡辺氏の事例は決して珍しいことではなく、中世から近世に移り変わる間(はざま)で多く見られた現象であった。
 ともあれ、こうして一乗山城は役目を終え、元の里山に帰っていったのである

備陽史探訪の会
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