びんご 古城散策・田口義之

◆一乗山城と渡辺氏 (十七)
                                      (福山市熊野町) 〈143〉

渡辺氏の菩提寺 ・ 常国
 三代目の城主出雲守房は毛利氏に忠節を尽くし、天正十六年(1588)に没した。法名蓮瑞、晩年は野々浜(福山市大門町)に住し、信仰に生きたと伝える。
房の嫡子を源三高という。勇猛な若武者であったが、天正三年(1575)の「備中兵乱」で三村方の備前国常山城攻撃の最中、壮烈な討死にを遂げた。年二十八という。
 乱世は若者の命を容赦なく奪った。渡辺氏の系図を紐解くと、初代城主越中守兼の弟、源六は天文二十二年(1553)九月、手城島で討死。その弟、源十郎は其れよりはやく、天文九年(1540)十二月、吉田郡山城の戦いの山場の一つ、土取場合戦で最期を遂げた。また、尼子が神辺の山名理興を救うため、備後布野に南下し、これを阻止しようとした毛利勢と烈しい戦いとなった、所謂「布野崩れ」では、渡辺氏の一族はこぞって毛利方として出陣し、兼の弟源三郎、房の弟佐渡守、同く兵庫頭が枕を並べて討死した。
 高が若くして亡くなったため、渡辺氏の家督は弟の民部少輔元が継いだ。元も父祖同様、毛利氏に忠節を励み、特に室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼り鞆に「動座」した際は、義昭の警護役を務め、義昭から格式ある大名のみに許された、「毛氈の鞍覆い」「白笠袋」の使用を許された。義昭も渡辺氏に招かれ一乗山城と常国寺を訪問したこともあるようで、常国寺にはその時義昭から拝領したという「肩衣」「硯」などの遺品を今も伝えている。義昭はさらに常国寺に銅鐘を寄進する意向を持ち、それを示す義昭の側近、真木島玄番頭昭光の添状も残っている。
 一般的な渡辺氏の系図では、元は天正十九年(1591)四月(二月とも)三十六歳で死去し、四郎左衛門尉景が跡を継いだとされる。
渡辺系図
 渡辺氏の身上に一大事件が生じたのは丁度この頃である。
 天正十九年、毛利氏は「惣国検地」を実施し、大規模な給地替を断行した。豊臣政権の忠実な大名となった毛利輝元は、自身の権力の基盤を固めるためと、既に日程に上がっていた秀吉の「朝鮮討ち入り」に対処するためであった。備後南部では、それまで毛利氏に対して自立的な行動を取って来た国衆の多くは、所領を没収され没落したり、給地を他国に移された。
 惣国検地の結果、備後南部の中心神辺城主となったのは毛利元就の八男毛利元康であった。元康の所領は安那一郡と深津郡の大部分、及びその周辺で二万三千石余とされた。この元康領の内に、どうしたわけか渡辺氏の所領「山田(熊野町)」が含まれてしまったのである。仰天した渡辺父子は、当時筑前(福岡)名島城にいた小早川隆景の下に赴き、事の次第を訴えた。ことの子細を聞きた隆景は激怒した。「元就自慢も程ほどにせよ、こんなことをしていれば身を滅ぼす」というわけだ。隆景は弟に当たる元康とおいにあたる輝元に書状を出し、一ヶ月以内に返答せよと命じた。震え上がった元康は直ちに山田を渡辺氏に返し、隆景に報告した(渡辺三郎左衛門家譜録)。

備陽史探訪の会
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