びんご 古城散策・田口義之

◆一乗山城と渡辺氏 (十六)
                                      (福山市熊野町) 〈142〉

渡辺氏木像
 現在伝わる諸種の渡辺系図によると、越中守兼には4人の男子がいて、次男の幸が後を継いだ。長男の吉兼が神石郡の有木氏の家を継いだからである。
 幸は系図で「常」と表記される場合もあるが、これは「幸」と「常」の草書の字体がよく似ているため、書写の際に読み誤ったためである。
 幸の後は、その嫡男の房が継いだ。房は源五、出雲守を称し、父幸の活躍が余り知られないのに対し、史料も豊富に残り、毛利旗下の国衆として縦横無尽の活躍をしている。
 先に述べたように、渡辺氏は神辺城主山名理興の「現形(裏切り)」に際し、大内・毛利陣営に止まったため、理興の攻撃を受けたが、元就の援軍によってかろうじて一乗山城を守りぬくことが出来た。
 理興の攻勢が毛利小早川の反撃で押し返されると、今度は渡辺氏が毛利の先陣として神辺城を攻撃する番であった。渡辺氏は手城に要害を築いて、小早川勢が坪生から神辺に進撃するのを擁護した。
 
一乗山城跡に残る石垣
 天文一七年に入ると、理興は神辺城に押し込まれ、落城を待つ情勢となった。
 翌天文十八年(1549)夏、出雲守房は毛利元就に従って山口に赴いた。大内義隆に謁見するため周防山口に下向した毛利元就父子に、備後国衆という立場ながら、供として下向したのである。この時、元就の供をして山口に赴いた備後国衆は「渡辺・安田」の他一人もいなかったという。

 こうして毛利氏との絆を深めた渡辺氏は、毛利氏のために一層の忠勤を励むこととなった。
 天文十八年九月、神辺城が落城すると、毛利氏の関心は備後北部と備中方面に注がれるようになった。備北神石郡には幸の兄有木民部太夫吉兼が、備中笠岡の小平井には幸の叔父杢丞正がいて、それぞれ本家渡辺氏のために情報の収集にあたった(渡辺三郎左衛門家譜録)。
 天文二十一年(1552)七月、尼子に応じた宮氏の兵が動き、出兵した毛利勢と合戦となった。これが同月二十三日の「志川滝山合戦」である。この合戦では宮氏が敗北、以後宮氏の旗が備南に翻ることはなくなった。渡辺氏もこの合戦に毛利方として参陣し、兼以来の宿縁を断ち切ることとなった。
 翌天文二十二年(1553)春、渡辺氏の旧主であった山内氏が江田氏を誘って尼子方となり、同氏の兵を備北に招き入れたことから毛利氏と烈しい戦闘となった。この時も、房は毛利氏のために情報を収集して貢献した。また、この時期、前にも述べたように、房は毛利氏の命で鞆要害の普請を行っている。これは備北の戦乱によって手薄となった備後南部に備中方面から尼子勢が侵入するのを防ぐためで、この鞆要害が後の「鞆城」の原型となった。
 備北の戦乱は、十月、江田氏の旗返城が陥落し、暮に山内氏、宮氏が毛利氏に臣従することで収まった。以後、備後の山野に合戦の雄叫びは絶えた。

備陽史探訪の会
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