びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (十五)
                                     (福山市熊野町) 〈141〉

手城島城址

 天文一二年(1543)から足掛け七年に及んだ神辺合戦は、渡辺氏の命運を決した戦いであった。大内氏から備後外郡の仕置きを任された神辺城主山名理興は、備後一国の覇者となる野心を持ち、同年大内氏を裏切って尼子に味方し、大内氏の領国に侵略を開始した。
 この理興の豹変に、それまで理興の下知に従っていた備後外郡の国人衆は困惑した。そのまま理興の兵となって神辺城に入るものもあったが、多くは理興に反抗し、理興の侵略を受けた。
 一乗山城の渡辺氏はあくまで大内方に留まって、理興の攻撃を受けた側であった。
 既にこの時期、越中守兼は一線を退き、出雲守房が当主として采配を振るっていた。房は、兼以来の毛利氏との結びつきを盾にしてこの危機を乗り越えようとした。沼隈郡では新庄本郷の古志氏、山南の光照寺、同じく山南の渋川領が理興の兵の攻撃を受け、焼き払われる中、一乗山城には毛利氏の援兵が入り、理興の兵を寄せ付けなかった。
 天文十三、十四、十五年と渡辺氏にとって苦しい時期が続いた。一乗山城は、領内の東南に位置し、鞆街道を押さえるためには都合の良い城であったが、領内全体の守りには不利であった。こうした時、当時の大名国人は、領内に「支城網」を構築することで、領地を守ろうとした。渡辺氏も同様であった。

常国寺に残る渡辺幸(常)の肖像

 渡辺氏の支城としては熊野盆地東方の甲谷城があった。小規模な山城であったが、畝状竪堀群が構築され、この時期になっても渡辺氏に利用されていたことは間違いない。甲谷城と一乗山城を繋ぐ城としては「大城・小城」があった。
 大城・小城は、甲谷城と一乗山城を直線で結んだ丁度中間の、熊が峰から西に延びた尾根上に築かれた山城で、ここに番兵を置けば、両城との連絡はのろしを使うまでもなく、「大旗」や「太鼓」で可能である。現地に行ってみると、大城の跡には曲輪の跡と尾根続きを断ち切った堀切の跡を確認することが出来る。
 天文十五年(1546)になると、大内側の反撃体制が整い、渡辺氏は苦境を脱した。神辺の山名氏に対する尼子氏の援兵は、毛利氏や味方国人衆によって悉く撃退され、神辺城は孤立し、却って大内方の攻撃を受けるようになったのである。
 そして、その尖兵として活躍したのが、一乗山城の渡辺房であった。房は渡辺氏が元々草戸に本拠を置き、海上戦にも明るかったことから、草戸から福山湾を挟んで東岸に位置する、引野の手城島に要害を築き、大内方の第一線として神辺城の理興に対峙した。伝承では、手城島には滋野氏が拠り、渡辺氏と戦ったとあるが、或いは渡辺氏の手城在城は、神辺側の守備兵を排除してのものであった可能性もある。
 天文十六年(1547)四月、手城に上陸した小早川氏の軍勢は同月二十八日、理興の兵の籠る坪生要害を攻撃、これを攻め落とした。こうして渡辺氏は危機を脱した。初代越中守兼は、この渡辺氏の開運を見届けたかのように一乗山城中で没した。天文十六年十一月八日のことであった。

備陽史探訪の会
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