びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (十四)
                                     (福山市熊野町) 〈140〉

月山城址

 小規模ながら、畝状竪堀群、石垣、井戸など、戦国山城の様相を今に伝える一乗山城跡だが、これらの遺構が築城当初からすべて備わっていたわけではない。初代越中守兼以来、歴代城主が営々として修築を重ねてきた結果である。
 当城を築き、山田の領主に成り上がった兼の前途は多難なものであった。時代は正に戦国の荒波が最高潮に達しようとしていた。城主として、安穏な日は一日もなかったであろう。主と仰いだ山内直通の権勢は、守護山名氏の権威が衰えると共に下降線をたどった。
 代わって備後の山野に姿を現したのは出雲の尼子氏と、周防山口の大内氏の旗印であった。
 この戦国の荒波を、兼はその時々で有利な側に着き乗り切っていった。尼子氏に味方した時もあった。天文初年(1540頃)と推定される尼子晴久(当時は詮久)の書状によると、尼子氏に味方した安芸金山城に援軍として入り、晴久から労われている。また、尼子氏は渡辺氏の鞆に於ける権益を承認したようで、鞆安国寺の支配を任されている(福山志料所収文書)。
 だが、天文十年(1541)正月、安芸郡山城の合戦で尼子氏が敗北すると、他の備後国人衆と共に大内側に寝返った。
 大内氏は勢力下に入った備後の、特にその沿岸部(外郡)の支配を神辺城主山名理興に任せた。山田の渡辺氏も理興の下知に従い、神辺城に出仕した。
 芸備地方の戦国時代の転機は、この天文十年の吉田郡山城の合戦と、続いて翌年に行われた大内氏の尼子氏攻撃であった。大内義隆は、上洛して幕府を牛耳る野心を持ち、そのため邪魔になる尼子氏を粉砕しようと、尼子氏の本拠富田月山城攻略の軍を興したのである。

大内義隆画像

 ところがこの企ては配下の国人衆の裏切りによって失敗に終わった。尼子氏の底力はまだまだ強く、長引く城攻めに倦んだ国人衆の中に尼子氏の誘いに応じ、攻めると見せかけて城内に走りこむものが相次ぎ、大内軍は総崩れとなって領国に逃げ帰った。富田城内に走りこんだ武将の中に神辺の山名理興がいた。理興は大内氏の敗勢を自己の勢力を広める絶好の機会と捉え、率先して尼子氏に寝返ったのであった。
 帰国した理興は早速大内氏に味方する国人衆の領内に兵を出した。西に進撃した理興の兵は松永本郷の古志氏や御調八幡(三原市)の渋川氏の領内を侵略し、天文一二年(1543)夏には安芸椋梨(三原市大和町)に進入し、毛利小早川の兵と刃を交えた(振鞘の合戦)。
 この状況の中で、渡辺氏は大内方に踏みとどまった。大内方には兼の盟友毛利元就がいた。兼は元就に味方することでこの危機を乗り越えようとした。
 大内氏は勢力挽回のため備後を二分して内陸部は元就が指揮を取り、沿岸部は重臣の弘中隆兼に任せた。兼は隆兼の支配下に入るのを嫌がり、元就の下で働くことを望んだ。この希望は叶えられなかったが、この選択が渡辺氏の運を切り開くこととなった(譜録渡辺三郎左衛門)。 

備陽史探訪の会
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