びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (十三)
                                     (福山市熊野町) 〈139〉

一乗山城の石垣

 城は、熊野水源地南方の、標高240メートルの山頂から北西に延びた稜線を掘切で断ち切り、段々に削平して城郭としたもので、水源地の水面からの比高は約七〇メートルを計る。
 構造は簡単だが、渡辺氏五代約100年間に渡って使用されただけに、至るところに年代による修築の跡が見られ、山城マニアにとっては見どころ満載の山城跡である。
 最高所の本丸は長辺二〇メートルの楕円形の平坦地で、背後に高さ2メートルの土塁を築いている。土塁の上面はやや広くなり、井楼櫓などの構築物が建っていた可能性がある。
 尾根続きを断ち切った堀切は、近在ではまれな、と言うか福山市域では最大の五条に及ぶもので、しかも各々の堀切は深くV字形に抉られ人を寄せ付けない。この堀切群を見学する場合は、二人以上で、ロープなどを用意し、十分注意して挑戦してもらいたい。
 本丸の南端のところには、径10センチ前後の丸みを帯びた石が数百個まとまって置かれている。井戸の跡とも言われるが、これは合戦で使用された「つぶて」をいざという時のために集積しておいたものである。戦国時代の合戦、特に籠城戦などでは、石つぶても多用された。高所を占めた城方は、敵が攻め寄せて来た時、上から盛んにつぶてを投げ、敵を防いだ。
 山頂本丸からは、所謂「鞆街道」を眼下に見ることが出来、城が築かれた理由を知ることが出来る。

足利義昭所要の肩衣 (熊野町常国寺蔵)

 陸路の主要道であった中世山陽道から鞆に行くには、かつては草戸から海路を利用するのが一般的であった(これが草戸千軒が繁栄した理由である)。ところが、戦国期になると、以前に述べたように、今津から山田(福山市熊野町)を通って山越えに鞆に至る陸路が開発され、盛んに利用されるようになった。その道が城下を通っているのである。城はこの鞆街道を支配するために築かれたと見ていい。
 渡辺氏は、この鞆街道を支配することによって、内海の要港鞆にも強い影響力を及ぼすようになる。天文二十二年(1553)頃、渡辺氏は毛利氏の命令によって鞆要害の普請を行った。これが所謂「鞆城」の記録上の初見だが、鞆に何らかの権益を持っていなければ出来ることではなかろう。また、天正四年(1576)、鞆に「動座」した将軍足利義昭は、山越えに一乗山城下の常国寺に滞在したことが知られるが、渡辺氏が鞆・山田間を支配していたからこそ可能であった。
 本丸の一段下には、西から北に廻って東に延びる帯曲輪が築かれている。ここで注目されるのは「石垣」である。西側の通称「二の丸」と呼ばれる部分には山側に、東側には谷側にそれぞれ石垣が築かれている。中でも東側のものは、崩れてはいるが総高5メートルに達する本格的なものである。崩れた部分を観察すると「裏込め」も見られ、単なる「土留め」ではなく、本格的な石垣として築かれたものであることが分かる。この石垣は、往時は鞆街道を往来する者を威圧するかのように聳えていたはずだ。

備陽史探訪の会
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