びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (十一)
                                     (福山市熊野町) 〈137〉

熊野水源地と一条山城跡

 渡辺氏の動向と草戸千軒町の盛衰は密接に関係している。
 かつて、草戸千軒町遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれ、芦田川の大洪水で一夜にして消滅したと言われてきた。発掘50周年を迎えた今日、この説明は誤りであることが明らかになった。そもそも、町自体が幾度も興廃を繰り返したものであった。
 町に人が住み始めたのは平安末期といわれている。以後、繁栄と断絶を繰り返しながら戦国時代を迎え、報告書によると、16世紀の初頭にはほとんど人家が絶え、伝説の町となった。
 だが、その末期の様子は我々がイメージする「草戸千軒」とは大分異なったものであった。遺跡の全貌が未だ明らかでない以上、はっきりしたことは言えないが、応仁の乱で興廃した町は、以前に紹介した方形居館を中心として再建され、市場町と言うよりも軍事的な拠点としての様相を帯びていた。
 草戸が軍事的に重視されたのは、海陸の接点として、神辺から尾道に至る街道から瀬戸内の要港鞆を結ぶ港湾としての役割が重視されたためであった。
 芦田川の河口一帯が鞆と強い関連を持っていたことは、先年発見された胎蔵寺釈迦如来胎内文書からも明らかになった。現胎蔵寺の釈迦如来坐像は、福山築城の前、現福山城の位置にあった「常興寺」の本尊で、その胎内から発見された経文の願主には多くの鞆浦の住人が見られ、両者の密接な関係がうかがわれる(広島県立歴史博物館研究紀要第12号)。文明三年(1471)四月、京都から備後に下った東軍方の備後守護山名是豊は先ず草戸に進駐し、ここに構えられていた西軍方の城を攻略した上で鞆に本陣を移している。草戸が内陸部から鞆に至る重要な中継地であったことを物語っている(三浦家文書七四号など)。
 備後宮氏もこの地に関心を示し、乱後の文明末年(1480頃)、草戸の土豪三谷・尾河内両氏の抗争に介入、三千の軍勢で町に乱入した。15世紀後半、町が一旦廃絶したのはこれらの戦乱の影響であった。
 文明年間を最後に、中継地としての草戸の名前は、史料から消える。替わって登場するのは渡辺氏が本拠を移した「山田(熊野町)」であった。
 天正三年(1575)三月、薩摩の島津家久は伊勢参宮に旅立ったが、その旅日記を見ると既に草戸の名はなく、山田が鞆への中継地として繁栄していたことが分かる。
「四月一日打ち立ち行けば、やがて三原の城(三原市)あり、(中略)、今津の町四郎左衛門といえる者の所に一宿
1、二日打ち立ち、山田とへる町を打ち過ぎ、やがて山田の城あり、行き行きて鞆に着き、善左衛門とへる者の所へ廻らひ、舟よそひの間にその辺一見し、鞆の城あり、(下略)」
 天正年間には、今津から鞆に至る新しい街道が開かれ、草戸に代わり「山田」が「町」として繁栄していた。そして、文中に「山田の城」とあるのが、渡辺兼が築城した一乗山城である。どちらが先か分からないが、草戸千軒の廃絶と渡辺氏の山田進出とは密接な関係があったと見ていい。

備陽史探訪の会
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