びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (十)
                                     (福山市熊野町) 〈136〉

今回確認された山城後   (↓ の山頂)

 渡辺兼が、当初盆地東方に位置する甲谷城を拠点としたと考えるのは、この城から渡辺氏のそもそもの本拠地草戸に道が通じているからだ。
 通路は二つ考えられる。一つは、城の南の谷をさかのぼって、峠越えに水呑に通ずる道。もう一つは、この道から分かれて彦山南の峠を越え、長和の志田原に出る道である。どちらも今は登山客や猟師しか使わない道だが、峠越えに水呑に出る道は、戦後しばらくは熊野の人が魚を求める道として盛んに利用され、グリーンラインに隠れるように残る峠には今も通行の安全を見守った地蔵が立っている。
 水呑から草戸にかけての沿岸部は古くから渡辺氏の勢力が及んだ地であった。草戸には渡辺氏の本拠、「本土居」があったし、水呑は越中守兼の父信濃守家が応仁の乱で敗れ、島々を流浪の末、備後守護代宮田備後守の許しを得て、最初に上陸した場所であった。「渡辺先祖覚書」によると、家は草戸本土居を修築するまでの間、しばらく「小水呑(水呑町北部)」を本拠としていたという。
 草戸から熊野に向かう「往還」は、昭和の初めまでは、草戸の半坂から山越えに志田原に出て、瀬戸町と熊野町の境、通称「かんかん石」を通って熊野の中心「六本堂」へ通じていた。
 さらに、この道は福山方面には、草戸の「大鳥越」を越えて、二股に分かれた芦田川を「銭取橋」と「鷹取橋」で渡り、城下に向かっていた。鷹取橋付近に、かつて渡辺氏の「本土居」と考えられる鷹取城が存在したことは以前に述べた。渡辺氏がこの往還を利用して、草戸から志田原に出、籠城の際の生命線としていたことは、ほぼ間違いない。
 渡辺氏の山城が、この「山田往還」を押さえるようなかたちで配置されていたことが、昨年末の調査で確認された。
 昨年十一月、地元の郷土史グループ「草戸川西街道」のみなさんと、山城跡を確認すべく、明王院裏山に登った。県の調査報告では、渡辺氏の山城とされる「中山城」が、草戸山南端の小さな丘とされていたが、研究者や地元の古老から「場所が違うのではないか…」という声が挙がり、改めて城跡の有無を確認するためだった。
 草戸の「大鳥越」(かつての山田道)から山に入り、尾根に出て、さらに山頂を目指した。すると、ピークを二つ越えた、標高一〇四メートルの山頂に、はっきりと山城の「曲輪」跡と分かる平坦地が残っているのを確認した。参加者は城跡に立って歓声を上げた。なんと、福山市街地から福山城まで一望の下ではないか…。さらに、曲輪跡の北には今も清水の湧き出る井戸らしきものがある。中世の山城跡と見て間違いない。しかも、渡辺氏にとって絶好の位置を占めている。南を望むと「山田道」を俯瞰出来、さらに渡辺氏の本知「田中名」のあった瀬戸町地頭分も視野に収めることが出来る。山頂から西に続く稜線にも城の遺構が残っていたはずだが、残念ながら団地の造成で破壊され、今は見ることが出来ない。「大鳥越」の上にあったとされる中山城、あるいは「西備名区」に言う、渡辺氏の「草戸山城」こそ、この城に間違いない(詳細は今後の報告に期待して欲しい)。

備陽史探訪の会
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