びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (九)
                                     (福山市熊野町) 〈135〉

甲谷城跡の西麓 「次郎丸」 に残る中世の石垣

 渡辺兼は、正式な手続きとしては、山田の正当な領有権者であった、宮氏と守護代山内直通の知行宛行状を得て同所の領主となった。
 こう書くと、兼は至極穏当に山田に入部したように見えるが、事実はそんなに生易しいものではなかった。第一、兼は自分自身が覚書で述べているように、敵方の支配している山田に「切り入った」のである。当然そこには血なまぐさい事態が巻き起こった筈だ。
 渡辺氏以前の山田(熊野町)の領主は、前に検討したように宮氏と山名氏であった。この内、山名氏は備後守護山名氏のことと考えられるから、ここでは除外していいだろう。
 問題は宮氏である。兼は覚書の中で、山田に切入った後、「一万六千貫の宮殿を敵に仕り在身」したと述べている。
 「在身」と言う言葉が何を意味しているのか不明の点もあるが、武力で山田に押し入り、それを排除しようとする宮氏の軍事力と対決しながら実力で同所を確保しようとしたはずだ。「宮修理亮殿御一行」は、講和の過程で、渡辺氏の山田押領を事実として追認した、或いは宮氏が山田を放棄した「去状」と言っても良いものだろう。
 私は、渡辺氏の山田入部に当たっては、宮氏と相当激しい「いくさ」があったと思っている。
 兼の山田入部にあたっての足掛かりは、光林寺池の南にそびえる甲谷城であったと推定される。ここは守護山名氏の勢力が及んでいたところで、被官として仕えた備後守護代山内直通を通して山名氏には了解を得やすいところであった。位置的にも本領草戸から長和の志田原(瀬戸町)を経て、山越えに行くことが出来る。その構造も単郭方形の主曲輪を持つ比較的簡単な構造で、戦国初頭の山城としてよい。
 それに対し、宮氏の拠点は甲谷城から熊野盆地を挟んで西北の「鳴」周辺にあったと推測される。ここには宮氏が造営した八幡社があり、その山麓には宮氏一族の墓石と伝える中世の石塔群もある。現地を歩いた感じでは、八幡社の周辺に宮氏の居館が存在した可能性が大である。
 兼が対決した宮氏は、「一万六千貫の宮殿」と呼ばれた宮氏の惣領家ではない。その庶家でこの地を本拠とした宮氏(山田宮氏と言っても良い)あった。
 その当主を宮長門民部左衛門尉信定という。そう、あの日親上人から自筆の曼荼羅を頂戴し、一寺建立を願いながらも果たせなかったという、あの人物である。後世の伝記では信定と兼は師弟関係にあったように描かれているが、それは兼の行為を美化したもので、本来は敵対関係にあり、兼は信定を実力で山田から追放し、領主となった。現熊野公民館の近くに「軍原」と言う地名が残っているが、このあたりで信定と兼の決戦が行われたのかもしれない。
 ただし、巷間に伝えられるように、信定が兼に討ち取られると言う事態は無かったものと考えられる。信定の子孫はその後芦田町に本拠を移し、有力国衆有地氏として発展しているからだ。最終的に、信定は惣領家の裁定を受け入れ、山田を兼に渡し、芦田町に本拠を移したと考えたい。


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