びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (八)
                                     (福山市熊野町) 〈134〉

覚書の筆者   渡辺兼木像  (熊野町常国寺蔵)

 「渡辺先祖覚書」(正しくは「渡辺備後草戸村代々居住の次第越中守此の如く書き残し候条々事)の筆者渡辺兼は、渡辺氏が山田(福山市熊野町)を知行するようになった経緯を次のように記している。

山田の儀木梨方知行の条、替わりにて当郷へ切入り一万六千貫の宮殿を敵に仕り在身候、此の如く候処に、直通調法衆宮修理亮殿御一行並びに千手寺宮高春副状、地頭分の儀は直通一行之在り

 やや難解な文章だが、現代文に直し、必要な部分を補うと、「山田を当方で知行するようになった訳は、その頃山田は敵方の木梨氏が支配する所になっていたが、苧原要害から撤退した私は、草戸に隣接した山田が敵方となっては本領も危ないので思い切って山田に切り込んだ。山田は本来宮氏の所領だったので、私は備後最大の豪族宮氏をも敵に回すことになってしまった。ところが木梨・山内両氏が和睦したことから、私の山田領有が認められることとなった。直通のおかげで領家方の領主であった宮修理亮殿から私に対して御一行(知行宛行状)と宮家の家老宮高春の添状が出され、地頭方については守護代直通殿から一行を拝領した。こうして私は山田を渡辺氏の本領とすることが出来たのである。」
 少々筆が走りすぎたかもしれないが、渡辺氏が山田を支配することになった経緯はこんなものだったろう。正式な証文が宮氏と守護代山内直通から発せられたのは、以前述べたように、当時の熊野盆地が領家方(或いは国衙領)と守護山名氏が支配する地頭方に分かれていた為である。
 そして、その年代は毛利興元、小早川興平の仲裁によって山内、木梨両氏の和談が行われた永正九年(一五一二)十月以降と判断できる。
 備後国人衆を二分して戦われたこの戦乱の中で、渡辺氏が山田を一円所領として獲得することが出来たのは、毛利興元の強力なバックアップと、宮氏の勢力が衰退しつつあったことが大きく影響していよう。
 興元との関係は、兼が山内氏の使者として安芸吉田に滞在したことから生じたもので、これが後に「渡辺兼は毛利元就から山田を拝領した」という伝承を産んだわけだが、宮氏の衰退に関しては別に説明が必要だろう。
 実はこの時期、毛利興元をはじめとした芸備の国人衆が京都から帰国(多くは永正五年、大内氏の催促に応じて上洛した)して所領の確保と拡大に向けて狂奔していた中で、宮氏の当主政盛は在京しており、国許の支配が疎かになっていた。直通の調略に応じて渡辺兼に山田領有の証文(一行)を発した宮修理亮は、政盛の嗣子で在国していた親忠であったが、兵力が京都と国元で二分された宮氏の影響力は当然薄弱となった。ここに渡辺氏が山田を手に入れる絶好のチャンスが生まれたのである。

備陽史探訪の会
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