びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (七)
                                     (福山市熊野町) 〈133〉

小早川氏の居城、   高山城跡(三原市本郷町)

 渡辺氏の山田入部に大いに関係すると考えられる山内・木梨両氏の講話は大変込み入ったものであった。現在一通だけ残されている毛利興元が小早川興平(小法師丸)に宛てた盟約状を見てみよう(書き下ろし文にする)
 「山内殿和与の事申し入れ候の処、木梨方同前仰せ合わさるべくの由、示し預かり候の条、その子細豊通へ申し達し、御参会相調い候、専一に候、仍て木梨方聊爾に於いては、豊通御一味として、木梨方の儀御退治あるべきの由、仰せ蒙り候、尤も以って肝心に候、若し豊通御聊爾候はば、御方拙者申し合わすべく候、御方御聊爾に至るんば、豊通我々一具たるべく候、此の如く申し談じ候筋目偽るに於いては、梵天帝釈、四大天王、殊には八幡大菩薩、厳島天明神、御罰罷り蒙るべき者なり、仍会盟の状件の如し
     永正九年十月十八日興元(押花)    小早川小法師丸殿  」 

 取り交わされた盟約は、木梨氏にやや分の悪い内容だったようである。
木梨氏が 「聊爾」 すなわち、違反した場合は毛利小早川両氏は山内豊通に味方し、木梨氏を「退治」 するに対し、山内氏が違反した場合は毛利小早川氏が「申し合わすべし」 とあるだけで「退治」 するとは書いていない。また、興元が違約した場合のペナルティーについての言及はない。
 これは、おそらく毛利興元の主導で 「和解」 が図られたためである。この時期、毛利興元の動きは活発で、盟約が成立する直前の九月十日、興元は木梨氏に組みしていたと推定される沼隈郡本郷(福山市本郷町)の古志氏を攻撃し、その居城を 「切り崩」していた(西備名区所収文書)。
 興元は早世したことから、弟元就の影に隠れて知名度は薄いが、中々の人物であった。この年(一五一二)三月には興元のリーダーシップで安芸の国人一揆が結ばれ、国内は安定を取り戻した。
 山内木梨両氏の抗争に介入したのも興元の意思で、国人同士が盟約を結ぶことによって戦乱を避けようとした。
 そもそも毛利氏は、興元の祖父豊元の代から備後の政局に深く関わっていた。豊元は応仁の乱で西軍の山名是豊追放に大きな役割を果たし、世羅郡西部に大きな所領を獲得していた(これを備後三千貫という)。
 盟約が山内氏有利に結ばれたのには別に理由があった。興元は先に述べたように木梨領に隣接する古志氏の居城を攻め落としているが、これは興元が山内氏に見方していたことを意味する。
 そして、 「毛利家文書」 中の 「弘元子女系譜」 に寄れば興元の妹は山内豊通の妻であった。
 恐らく、興元は姻戚関係にある山内氏に見方することで両氏の抗争に介入し、その武力で和談を実現したものと思われる。結果は当然ながら盟約は毛利・山内両氏に有利なものとなった。
 ここからは単なる推測だが、渡辺兼はこの盟約に際して、豊通の使者として度々毛利氏の本拠吉田(安芸高田市)を訪れていたのではなかろうか・・・・・。そして、未だ分家の気軽な身分であった元就と親密な間柄となった。記録に残らない歴史の背景とは、案外こんなものだったのかもしれない。

備陽史探訪の会
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