びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (六)
                                     (福山市熊野町) 〈132〉

毛利元就が青春時代を過ごした多治比猿掛城跡(安芸高田市吉田町)

 結論を述べる前に、渡辺氏の山田入部の経緯を語る史料として、天正十九年(一五九一)十二月十七日付の小早川隆景の書状を紹介しておきたい。
 この文書は、天正十九年に実施された毛利氏の惣国検地の結果、渡辺氏の所領山田が神辺城主毛利元康の領内に入ってしまい、「無足」となった渡辺氏が当時筑前名島に居た小早川隆景の下に赴き、所領の安堵を嘆願した結果、隆景が元康に山田を渡辺氏に返すよう要求した文書である。
 総文字数千五百字に達する長文の書状の中で、隆景は渡辺氏が山田を領することになった経緯を次のように述べている。
「渡辺氏のこと、今のように山田が元康領に編入されてしまっては滅亡以外ないことで、はるばる私の下までやってこられ、何とかして欲しいという事なので、彼らと毛利家がいかに親しかったか、忠節を尽くしてくれたかをお前に教える。何とか渡辺父子が安堵できるよう取り計らってもらいたい。」と前置きした上で、「其の子細は」として、渡辺氏と毛利氏の関係を綿々と綴っている(以下は読み下し分で紹介する)。
 「渡辺越中(兼)事、興元様御目に懸けられ、備後より召し下され候て久しく吉田におかれ候、その節は日頼様(元就)は未だ田治比殿にて御座候つる間、兄弟の如く御取□候て逗留候、其以後草戸へ罷り下られ候、興元様も御遠行候、それ以来中国の変化大小家共その数を知らず候、然らば吉田(毛利家)の御事いぬふし坂の上、伊多岐馬とをしを限に御無力に罷り成候条、備後外郡惣並の身持ち差し遣わされ候(下略)」
文中の「備後外郡惣並の身持ち」が山田を指すわけだが、内容は渡辺氏の毛利氏への忠誠を示すあまり、相当の誇張が含まれている。特に、元就が渡辺兼に山田を「差し遣わ」したに至っては到底ありえない話である。
 隆景はその時期を、永正の末からから大永年間に想定しているようだが、その時期、「備後口は伊多岐の」馬通峠(現三次市三和町板木)以遠に勢力が及ばなくなったはずの毛利氏に、渡辺氏に「備後外郡惣並の身持ち(山田)」を与えられるはずはない。渡辺氏の毛利氏に対する忠節心を強調するあまり、筆が走ったとしか思えない。
 しかし、この書状には一箇所注目される情報が含まれている。渡辺兼が毛利興元と親しく、一時は吉田に滞在していた時期もあったというくだりだ。
 実は、渡辺氏が山田を領有するきっかけとなった山内氏と木梨氏の抗争は、永正九年(一五一二)九月、国衆の「口入」によって和談がまとまり、収束に向かったが、その仲介役を務めたの毛利興元その人と、同じく安芸国衆の小早川興平であった。

備陽史探訪の会
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