びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (五)
                                     (福山市熊野町) 〈131〉

尾道原田の中山城跡を望(麓は府中・松永線が開通している)

 山内氏と木梨氏の対立抗争は、内海随一の要港、尾道の支配をめぐってのものであった可能性が高い。
 応永八年(一四〇一)年の将軍足利義満御判御教書によって太田庄の倉敷地「尾道浦」を支配下に置いた守護山名氏は、尾道を国府(現府中市)に次ぐ有力拠点として確保し、ここに守護代太田垣氏を置いた。ここから上がる収益は莫大なもので、守護山名氏はこの地を支配することで、備後国内ににらみを利かせることが出来た。
 一方、木梨氏もまた尾道に権益を有した有力者の一人であった。木梨氏は、杉原氏の有力庶家で、南北朝時代、始祖の信平・為平が尾道の北部から三原市東部にかけて広がる荘園「木梨庄」の地頭職を獲得し、虎視眈々と尾道を狙っていた。
 守護山名氏の力が強かった時代、木梨氏は尾道に一歩も踏み入れることは出来なかったが、応仁の乱以来の戦乱は、木梨氏の野望を果たす絶好の機会を提供した。ところが、この木梨氏の前に強敵が現れた。在地の国人ながら守護代に任ぜられ、国内随一の権力者に成り上がった山内氏であった。山内氏は本来備後北部の国人であったが、守護代を梃子にして備後一国の覇者、すなわち、戦国大名にのし上がろうとした。山内氏にとっても尾道は是が非でも確保しなければならない要港であった。ここに両者が刃を交える必然性があった。

中山城主の菩提寺「最円寺」
 山内氏と木梨氏の抗争は、16世紀初頭の文亀年間(一五〇一~〇四)には始まっていたようである。『渡辺先祖覚書』によると、山内氏の有力な被官であった渡辺兼は、「木梨方現形の砌に一分にて苧原へ押し上り、要害取拵え拾ヶ年在城」したという。苧原は現在の尾道市原田町小原で、現地には「中山城」と呼ばれる、兼が「取誘(こしらえ)」た要害(山城)が残り、この記載を裏付けることが出来る。中山城跡の麓には府中から尾道、芦田から尾道に通ずる往還が走り、兼の役目はこの往還を遮断することであったと思われる。木梨、山内両氏の抗争はやがて周辺の諸豪を巻き込んだ大規模な戦乱に発展した。
 備後には山内氏の台頭を快しとしない国人も多く、中でもそれまで備後随一の権勢を誇っていた宮一族はこぞって木梨氏に味方した。渡辺兼の苧原要害在城は宮氏にとっても不都合で、宮氏は今大山城(神辺町西中条)から出兵し、渡辺氏の本拠草戸に攻め寄せた(渡辺先祖覚書)。こうして渡辺氏は「一万六千貫の宮殿」と呼ばれた宮一族も敵にまわすこととなった(同上)。宮氏が木梨氏に味方し出兵したことは山内氏と渡辺氏をを苦境に陥れた。苧原要害の維持が難しくなった兼は遂に同要害を放棄し、替わりに木梨氏が支配していた山田に「切入った」(同上)。草戸まで脅かされていた兼は最後の手段に出たのであった。

備陽史探訪の会
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