びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (四)
                                     (福山市熊野町) 〈130〉

山内氏に敵対した木梨氏の拠城  鷲尾山城跡

 渡辺氏が山田に本拠を移すきっかけとなったのは応仁の乱から30年、戦乱が激しさを増した16世紀に入ってからのことであった。
 応仁文明の大乱後、一旦は守護山名政豊の支配下で秩序を取り戻すかに見えた備後も、明応二年(1493)春、中央で「明応の政変」が勃発し、それに連動して守護家が再び分裂すると、果てしない戦乱に突入していった。明応の政変で管領細川政元の手で将軍の廃立が行われると、政元と結んだ前守護山名政豊派が現任の守護山名俊豊の追放を企て、国内を二分しての戦いが繰り広げられた。
 この争乱の中で、渡辺氏の4代目渡辺兼は俊豊派の巨頭庄原甲山城主の山内直通の下で働くことによって勢力を拡大しようとした。『渡辺先祖覚書』によると、兼は直通の使者として味方国衆との連絡役を務め、両派間の「和談」で、但馬(兵庫県)は政豊、備後は俊豊の分国という取り決めが結ばれると、「国に於いて申次」を務めることとなり、「藁江の内奈良木分」「木之庄正枝分」などを恩賞として与えられ、大乱で一旦は没落した渡辺氏を見事に再興することに成功した。
 だがこの和談は新たな戦乱の始まりでもあった。分裂を繰り返すことで失われた守護の権威は容易に回復せず、それまで守護の権威の下で雌伏していた国衆連合が頭をもたげ、互いに対立抗争を繰り返すこととなった。
 俊豊を備後に迎え、その「守護代」として絶大な権勢を振るった山内直通に対して、和智江田の広沢衆や木梨氏などは、当然面白いはずはなく反撃の機会を虎視眈々と狙っていた。

鷲尾山城本丸跡
 永正四年(1507)、京都で、管領細川政元が暗殺され、細川氏の内訌が起こると、政局が大きく動いた。政元によって追放された前将軍足利義稙が周防の大内氏の援助で将軍職の奪還に動き出したのである。義稙を奉じた大内義興は同年の暮、大軍を発し、翌年夏、将軍義澄、管領細川澄元を追放して都に入り、義稙を将軍職に復職させることに成功する。義興は以後10年間在京して幕府の実権を掌握した。備後の諸豪族も宮氏をはじめほとんどがこのとき義興にしたがって上洛した。
 だが、義興の在京が長引くと、国衆の中には国元に引き上げるものが相次いだ。在京の負担は莫大のもであったし、この機会に所領の拡大を目指して争乱を企てる者もいて、中国地方の政情は不安定なものとなった。
 備後でも同様で、有力国衆の在京の隙を突いて、勢力の拡大を企てるものがいた。尾道市木之庄町木梨の鷲尾山城を本拠とした木梨氏がそれであった。木梨氏は以前から守護代山内直通に対して挑戦的で対立を繰り返してきたが、この機会に一気に勢力を拡大すべく侵略を開始した。後に渡辺氏の本拠となる山田(現熊野町)もこの時木梨氏によって押領された地域の一つであった。

備陽史探訪の会
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop 地図はこちらから