びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (三)
                                     (福山市熊野町) 〈129〉

覚書の筆者、渡辺兼木像 (熊野町 常国寺蔵)

 渡辺氏が山田(現福山市熊野町)に入って来た理由を知る手立てとして、もう一つ重要なのは、渡辺氏の菩提寺であった常国寺創建の年代と、その経緯である。
 同寺の創建年代を一番古く記録するのは、度々引用してきた『水野記』所収の「寛永寺社記」である。

山田郷
日蓮宗高照山常国寺
 上山田村に在る也 嘉吉年中渡辺信濃守建立、信濃守子孫六代百五十年間相続して寺領百石を附す也 毛利家備後を領す時毛利家に属す也 此の時将軍義昭備後に赴き毛利輝元に依って此の寺に入る すなわち館として数年此の寺に居る 義昭此の寺を再興せんと欲し果たさず 遂に福島正則此の地を領して寺領を削る 寛永十六年に到って四十余年に及ぶ 住僧日保という也

 嘉吉年中(一四四一~四四)、渡辺信濃守創建というのは、明らかに誤りである。信濃守は高、或いは家と思われるが、いずれも本拠は草戸に置いており、山田に入った形跡はない。
 「嘉吉年中云々」は、『日親得行記』の次の一文に依ったものであろう。

常,国寺蔵日親筆曼荼羅本尊、大きな日親の花押しの左に
   「 宮長門民部左衛門尉藤原信定・・・・・ 」 とある。
 師重ねて九州弘通あり、備後の国に到りて盛んに宗義をひろめたまう。僧俗教えを請てあまた受法す。ここに宮長門左衛門尉藤原定親、此の人応永年中より(一書に応永より嘉吉年中)大内につとめかよいしことあまた年なり(略)師の御許に来りて受法す、その後大曼荼羅円頓者又諸の要文を頂戴し三幅対となして国に帰りぬ。是を寺鎮として一宇を建立すべしと思いしにその頃国近き所に将軍の命に背くもの出来し定親彼の所に向かいし故に建立の望みも命の内に事ならざリければ此の門下に渡辺氏の某宮定親の志を継て一寺を草創せんと願う折節、日親師此の国に入り給ひぬ、渡辺氏甚だ悦ひ山田の郷に是(常国寺)を建立す(下略)

 つまり、熊野町の日蓮宗常国寺は宮長門左衛門尉定親の遺志を継いだ、定親門下の渡辺氏が建立したというのだ。
 これは、前に紹介した常国寺の過去帳の裏に記してあったという、毛利元就の命によって宮信元を討ち果たして山田を拝領したという伝えとは全く逆の伝えである。真相は果たしてどうなのか…。
 現在、常国寺に伝わる日親自筆の曼荼羅その他に依れば、宮定親が一寺建立の志を抱き、渡辺氏がその遺志を引き継いで常国寺を建てたというあらすじは概ね認めて良いようである。ただし、その年代は「嘉吉年中」から半世紀以上下る。常国寺蔵の日親自筆の曼荼羅本尊の奥書には、日親の巨大な花押と共に、「宮長門民部左衛門尉藤原信定戒名定親事」と曼荼羅を授けた人物の名と、「文明十八年(一四八六)十月 日」の授与した年代がはっきり書かれているのである。

備陽史探訪の会
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