びんご 古城散策・田口義之

■一乗山城と渡辺氏 (二)
                                     (福山市熊野町) 〈128〉

熊野水源地と一乗山城跡

 熊野町の旧名は山田である。江戸時代は、上・中・下山田の三か村に別れ、明治になって合併、更に福山市に合併して熊野町になった。
 歴史は古い。町名の起源となった熊野神社裏山からは、弥生時代の平型銅剣が出土し、町の南端、大富には古墳も存在した。
 熊野の古代史で注目されるのは、古代窯業遺跡と、古代寺院址の存在だ。古墳が存在した大富の山中には奈良・平安期の須恵器の窯址が群在し、その内の一基は保存状態も良く、熊野上代土器窯址として県の史跡に指定されている。また、町の中心「六本堂」付近からは古代の布目瓦が出土し、古代寺院址の存在が指摘されている(福山市史上巻)。いずれもこの地が古くから開発され、古代から栄えていたことを示している。
 熊野町の旧名「山田」も、この地が古代沼隈半島の中心地のひとつだったことを物語っている。沼隈半島には山田を中心にして北と南に「山」の付く地名が分布している。すなわち、六本堂から北に県道を下りれば瀬戸町「山北」が、南に峠を越えて下れば沼隈町「山南(現在上中下に分かれる)」がある。「山」は邪馬台国の「邪馬」に通ずる古い地名で、ここが古くから地域の中心地だったことを暗示している。この「山」が具体的にどの山を示しているのか、一般的には熊野盆地の西方、標高二八九㍍の馬背山がそれだとされるが、私はそれよりも盆地東方にそびえる標高四三〇㍍の「彦山」がより相応しい、と考えている。

比古佐須伎神社(瀬戸町志田原)
 彦山と呼ばれる山は各地にあるが、そのほとんどは山岳信仰の霊山である。「彦」は古代、男子の尊称であり、神を意味していた。福山の彦山もそうであろう。山頂付近には土師器の出土する地点があり、瀬戸町志田原に鎮座する延喜式内社「比古佐須伎神社」は元、彦山の山頂近くに鎮座し、山自体が御神体であった。
 草土本土居(鷹取城)を本拠としていた渡辺氏が、この山田に入ってきたのは、越中守兼の代、永正年間(一五〇四~二一)のことであった。『備陽六郡志』は、常国寺の祖師堂の内、「過去帳の裏に記し之有り」として言う、
「渡辺信濃守高 越前福井の産、幼少ニシテ父死シ伯父二養育セラル、伯父害心アリ。高、伯父ヲ討テ本国ヲ退去シ当国二来り、草戸村二住ス。法号大樹院空山
同信濃守兼 法号正樹院宗慶。
同信濃守家 法号寶巌院蓮心。
右三代草戸村二住ス。
渡辺越中守兼 毛利元就、兼二命ジテ曰く、当国三太守(宮・三吉・杉原)ノ内一人ヲ討取二於イテハ忠賞ヲ行ルヘシト云々。因テ宮近門民部左衛門藤原信元ヲ討取、其勲賞トシテ山田三ヶ村ヲ賜リ、初テ一乗山ニ城ヲ築テ住居ス」
 渡辺氏がこの地に入って来た由緒を記した江戸時代の文章だが、これでは何故元就が兼に命じて「当国三太守」を討たせたのか、兼が何故宮信元を討取ったのか、理由がさっぱり分からない。渡辺氏が山田に入って来た理由や経緯を明らかにするには、やはり、戦国初頭の備後南部の様子から見て行く以外にないようである。

備陽史探訪の会
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