びんご 古城散策・田口義之

■鷹取城と渡辺氏 (その4)
                                     (福山市草戸町) 〈126〉

福山市熊野に江戸時代に再建された、常国寺唐門(重要文化財)

 渡辺氏は数ある備後の国人土豪の中でも由緒のはっきりした家だといわれて来た。だが、その古い時代のことは朦朧としている。
 備後の地誌の中でも城主の来歴に詳しい『西備名区』でさえ、その四代、越中守兼が草戸から山田(福山市熊野町)に本拠を移した時期について、記録によって齟齬があることを述べた後、「本州(備後)諸士の中にても渡辺の家は系図正しく連綿たると伝ふるに斯くの如し」と嘆いている(同書巻二〇沼隈郡下山田村の条)。
 最初の問題は、備後来住の時期である。
 私はこの連載で、渡辺氏が草戸にやって来た時期を、「渡辺先祖覚書」を元にして、信濃守高の代、室町時代初期と述べて来た。だが、それより古く鎌倉時代にさかのぼるとする説もあった。諸種伝わる渡辺氏の系図を基にしたと推定される『西備名区』の説である。
 同書は、渡辺氏が嵯峨源氏の渡辺綱の子孫であることを縷々述べた後、「綱五世の孫友綱迄、渡辺(摂津)に住す。友綱、山田に移って子孫所々に散在す」と述べている(巻二〇沼隈郡上山田村黒森城の条)。
 時代は鎌倉末期から南北朝時代のはじめのことであろうか。更に、友綱の男豊綱は筑後守を称し、神石郡時安村に移り、丸山城を築いて居城し、子孫は同地で繁栄したと伝える。

渡邊氏の系図(熊野町常国寺蔵)
 また、藁江村赤柴山城のところに渡辺源左衛門尉春綱、同越中守義綱父子を挙げ、「山田村住士。応永五年(一三九八)、当城(赤柴山)へ移り、同十七年(一四一〇)山田村へ帰ると云。」と記している。
 この友綱、豊綱、春綱、義綱は現在伝わる渡辺氏の諸系図には出て来ず、同書のみの伝えだが、これを全くの誤伝として捨て去ることは出来ない。現に、神石高原町時安には渡辺氏の居城と伝える丸山城跡が存在し、その子孫と考えられる人物の実在を証明する記録に残っている(毛利家文書三七五号など)。
 更に、南北朝時代に活躍した渡辺四郎兵衛尉持、同刑部左衛門尉忠、同四郎左衛門尉直の三代に関しては、足利直義、今川直貞、桃井直常に属して安芸、備後を転戦した記録が残り、一時なものだったにしても、この地方に足掛かりを持っていたことが想像される(毛利文庫「渡辺三郎左衛門家譜録」など)。渡辺氏の諸系図では、この直の子が草戸に土着した信濃守高であったとされている。
 南北朝期に摂津渡辺氏の一族が芸備地方に移住してきたことは認めてよかろう。その代表が神石郡の渡辺氏や、後に戦国大名毛利氏の重臣となった安芸の渡辺氏である。
 渡辺高は越前福井の生まれであったと伝わる。渡辺持・忠・直が従った桃井氏は足利直義党の有力者で越中で没している。渡辺氏はこの桃井氏に従い北陸に移り、更に越前守護となった同じ直義党の斯波氏に仕え、越前福井に移り、同地で高が誕生したと考えれば良いのである。

常国寺案内板


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