びんご 古城散策・田口義之

■鷹取城と渡辺氏 (その3)
                                     (福山市草戸町) 〈125〉

福山市芦田川草戸大橋(現在の)

 草土千軒町遺跡で発掘された「方形居館」跡が渡辺氏の居館でないとすると、「渡辺先祖覚書」がいう渡辺氏の「今の土居」「本土居」はやはり鷹取城と考えるしかないようである。
 残念ながら鷹取城跡は、現在地表に何らの痕跡も残していない。
 『草戸の今昔』に、鷹取城は「鷹取橋東詰めの土手を少し下った小高い所に、四つ堂が祀ってあった。この処が中山城の出城鷹取城の跡だと思われるが、今は改修されて四つ堂はない。」とあり、城址は旧鷹取橋の東詰め付近にあったようである。伝聞では昭和初年までは城址は周辺と比べて少し高くなり、それと分かったそうである。
 明治30年の陸地測量部発行の二万分の一地形図によると、旧鷹取橋は現在の地吹町の南西、百㍍ほどのところに架かっている。とすると、鷹取城跡はその東詰めというから、地吹の荒神さんの南辺りに存在したことになる。

地吹荒神さんにある
鷹取橋の標柱
鷹取中学校の校門にある
 鷹取橋の標柱
 現在一帯は住宅地や老大の敷地になっているが、或いは地下に遺構を残しているかもしれない。今後の調査に期待したい。
 鷹取城跡が現在の地吹の荒神さんの南辺りに存在したとすると、見逃せないのは「海」との関係だ。城が存在した時期の海岸線を推定すると、城の東側は海岸に接していたことが推定される。発掘してみなければ何とも言えないが、城は「海城」としての役割も担っていたのではあるまいか。
 草戸千軒町遺跡は、明王院の門前町、長和庄の市場町として繁栄したと言われるが、それよりも芦田川河口の港町の一部、右岸に発達した集落と考えたほうが良いと思っている。我々はともすれば、「草戸千軒町遺跡」の発掘成果のきらびやかさに幻惑されて、それを現在は掘削された芦田川の中州だけに限定して考えてしまうが、それは間違いである。しかも港湾集落は左岸にも発達していたはずだ。左岸には、現在の福山城のある丘陵にあった常興寺をはじめ、その北の丘陵には永徳寺と称する大伽藍が存在し、何れも室町時代には繁栄を極めていた。また、最近この一帯は備後を代表する国人大名であった杉原氏の「苗字の地」杉原保の故地であったことが明らかになった(胎蔵寺釈迦如来胎内文書)。

草土千軒町遺跡から出土した石塔群(明王院境内)

 杉原氏の惣領家は府中の八尾城に本拠を置いており、芦田川の中下流域を支配下に置いていた。その場合、芦田川河口の杉原保は府中八尾城の外港としての役割を果たしていたはずだ。
 要するに、芦田川の河口は、左岸、右岸(これが草戸千軒である)は中世、繁栄していたわけで、これを受けて水野勝成が福山城を築いたのである。今まで言われてきた河口左岸の、「さびしい漁村」説はとんでもない誤りなのである。
 こうしてみると、何故城がこの地に築かれたのかおぼろげに浮かんでくる。それは芦田川河口の港に出入りする舟を見張る海関の役割を果たしていたのだ。

備陽史探訪の会
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