びんご 古城散策・田口義之

■鷹取城と渡辺氏 (その2)
                                     (福山市草戸町) 〈124〉

 草戸千軒町遺跡で発見された居館(土居)の跡は、残念ながらもう見ることは出来ない。調査終了後、中州のほとんどが掘削され、遺跡自体が消滅したからだ(中州部分のみである。遺跡は周辺部にも広がっており、地中に残されている部分もある。誤解のないように…)。
 発掘された居館跡は、一般に「方形居館」と呼ばれるもので、一辺が100㍍に達する大規模なものである、周囲には幅10㍍ほどの堀がめぐり、その内側には土塁が廻っていた痕跡が認められた。更に、この居館の北辺には一辺40㍍ほどの小規模な方形居館が付属していた。内部にはさまざまな遺構が確認されたが、中心的な建物は「礎石建物」で2度にわたって建替えられ、何度か改修されたようだ(鈴木康之「中世瀬戸内海の港町、草戸千軒町遺跡」シリーズ「遺跡を学ぶ」新泉社刊より)。
 さて、問題はこの大規模な方形居館が「渡邊先祖覚書」の言う「今の土居」「草土本土居」かどうかだ。

福山市芦田川  
    殆んど消滅した草戸の中州。 写真中央あたりに方形居館跡があった。

 私は以前は、この発掘された方形居館こそ渡辺氏の土居であると考えていた。理由は、その立地と存続年代にある。鈴木氏の前掲書や草土千軒町遺跡の発掘調査報告書によると、この方形居館は15世紀後半、おそらく応仁の乱終了後頃に現れ、16世紀初頭に廃絶するという。
 16世紀初頭と言えば、渡辺氏が草戸から山田(熊野町)に本拠を移した時期である。方形居館は渡辺氏の土居として使われ、同氏が山田に移った時点で廃棄されたと考えたのだ。
 ところが、最近の研究成果はこの考えに否定的である。中世武士にとって居館の規模はその地位を示すものであり、100㍍(ほぼ一丁)四方のそれは守護か、或いは有力国人領主の居館に匹敵する。
 さらに、方形居館が各地に築かれるのは応仁の乱後で、国々に下った守護は各々守護所として方形居館を構え、それも京都の将軍邸を模したもので、京都の文化が地方に拡散していくきっかけとなった。
 時期と言い、規模と言い、草戸千軒町遺跡で発掘された「方形居館」は正に守護クラスの格式を示すものであった。渡辺氏の格式は守護被官、それも「小座敷衆」と呼ばれた、一郷一所を領するのみの小国人、或いは土豪である。この方形居館の主人には似つかわしくないと言える。では、誰がこの居館の主かといえば、備後守護、或いは守護代職にあった人物、更に言えばこの時期の守護であった山名俊豊、守護代山内直通が相応しいと考える。「渡辺先祖覚書」を読むと、丁度この方形居館が存在した頃、守護代の山内直通が敵対していた備中陶山氏と草戸で「参会」したとあり、この地に守護に関連した何らかの施設が設けられていた可能性が高い。その施設こそ、この方形居館であったのではなかろうか…。


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