びんご 古城散策・田口義之

■鷹取城と渡辺氏
                                     (福山市草戸町) 〈123〉

 草戸町には既に紹介した中山城と半坂山城の他に、もう一つ鷹取城というのがあったと伝える。
 鷹取は旧草戸村の「字」の一つで、改修前の芦田川の中州の東南部周辺を指す。改修前の芦田川には、二股に分かれた東側の流れには「鷹取橋」が架かり、本流には「銭取橋」が架かっていた。ちなみに、今の草戸大橋は、ほぼ旧銭取橋の位置に架かっている。
 鷹取中学校の校名はこの「鷹取」に由来し、現校門前には河川改修で撤去された旧鷹取橋の標柱が記念に保存されている。
 この城跡について『西備名区』には記載がなく、『備陽六郡志』外編分郡之二、草戸村の所に、
「古城壱ヶ所  鷹ノ取 城主 
 渡邊 」
とあるのみである。
 草戸に於ける渡辺氏の居城については、『渡辺先祖覚書』に二箇所ほど出てくる。
 一つは、初代渡辺高が備後に土着するくだりである。
「かしよき備後国悲田院領所に庄主たるによって(高を)つれ、備後草土村へ下向し、今の土居に湯やの坊と申す山伏居られ候に預け置き(下略)」
 親類の「かしよき」に連れられて備後草土(戸)村にやってきた渡辺高は、草戸の「今の土居」に居た「湯やの坊」と呼ばれる山伏に預けられたというのが、そもそも備後渡辺氏の興りであった。
 もう一ヶ所は、高の曾孫兼が応仁の乱で東軍に味方して敗れ、許されて草戸に帰ってくる個所である。

福山市地吹町  地吹荒神社の境内に建つ旧鷹取橋の標柱

 「(西軍に降伏した兼は)井下の島(弓削島)より小水呑(水呑町)まで罷り上り、一両年在身にその後草土本土居へ安堵せしめ候(略)連々堀を掘り普請申し付け土居かたちに仕り候(下略)」
 主君山名是豊の没落によって、一度国外に逃亡した渡辺兼は、弟小三郎を備後守護代の宮田教言に人質として差し出し、許されて備後に帰国し、草戸の「本土居」を修築して本拠とした、というのがその要点である。
 問題は、初代高が預けられたという土居と、兼が「本土居」と呼んだ渡辺氏の居館が同じものかどうかという点と、江戸期の文献に記載された「古城壱っ箇所、鷹ノ取」の関係である。
 結論から言えば、応永年間(一三九四~一四二八)、初代高が預けられたという土居と、四代兼が修築したという本土居は同じものである。
 『渡辺先祖覚書』は四代兼が享禄三年(一五三〇)から天文三年(一五三四)にかけて著した自身の覚書である。その兼が湯やの坊が住んでいた土居を「今の土居」というのだから、それは兼自身が修築し、天文三年時点でも存在していたであろう、草戸の「本土居」のはずである。
 この渡辺氏の「本土居」が鷹取城であるかどうか、という点になると、話はやや微妙になる。あの有名な草戸千軒町遺跡の発掘調査で、渡辺氏のものではないかという、土居屋敷の跡が発見されているからだ…。


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