びんご 古城散策・田口義之

■日隈山城と日隈氏
                                 (福山市新市町上安井) 〈121〉

日隈自然公園の池

 福山地方の3大郷土史書の一つ、『備陽六郡志』は何度手にとっても飽きない書物だ。最初にこの書を手にして40年になるが、今でも何かあるとひも解いている。
 古城に関しては、著者の宮原直倁はことさら関心を示したように見えない。城主に関しても内編に『備後古城記』をそのまま転載しているのみだ。
 ただ、所々に、注目すべき記事が載っている。今回紹介する新市町の日隈山城に関する記事もその一つである。
 同書外編品治郡之二、上安井村のところに次の記載がある(現代文に直して紹介する)。
「宮殿の下屋敷というところがある。所々に宮氏の城跡が残っているが、この村に宮氏の城跡という場所はない。何処の宮氏の下屋敷だろうか。ただ、常村と当村の境に古城跡がある。日熊山という。当村の分を西の丸といい、常村の部分を二の丸という。(西の丸、二の丸は秀吉以後の言葉だから)近頃まで城があったのであろうか…。この辺りの田畠を耕すと時々鏃や鎧の金物が出土するという。城山の南麓を字安松という。田の畦に古い石塔が立っている。日熊殿と呼んでいる。延文元年十一月四日の銘がある。そのほかの文字は「主」以外かすれて読めない。瘧虫歯などを患う者には験があるという。城山の麓には首立場、堀の内などの地名が残っている。」

 新市町上安井県道より、日隈自然公園に登る案内板

 六郡志の著者が城主よりも地名に関心を持っていたことよく示した文章である。
 現地に行ってみると、城跡は備南の最高峰蛇円山から西南に延びた山脈が神谷川の河谷平野に突き当たって尽きるところに位置し、標高100㍍、麓からの高さ五〇㍍を測る小さな岡である。城の構造は、北から東南に突出した丘陵上に五、六段の曲輪を並べただけの簡単な縄張りで、石垣・土塁などは残っていない。東南に突出した部分が一番高く、西北に鞍部を経てもう一つのピークがある。両方の山頂に曲輪跡が残り、六郡志がいう西の丸、二の丸はこの二つのピークのどちらかを指すのであろう。位置的に東南の最高所が上安井分で西の丸、西北のもう一つの山頂が常分で二の丸と呼びたいとことだが、上安井分は城の東南部にあたり「西の丸」ではない。
 『備後古城記』は、この城を「日隈山」とし、「此の山の表上安井村、裏は常村」、城主は日隈肥前守入道快真であったと記す。また、城主名だけ書き上げることの多い同書にあって、珍しく伝承記事を収録している。それによると、日隈快真は宮下野守の家老であって、雨木村助元村(いずれも駅家町服部)の村境の「軍カ端」というところで討死したという。また、家士に田上、江草氏などがあり、菩提所は服部の禅宗信光寺であったという。
 上安井の城主が何故流域の違う服部で戦死したのか、何故菩提寺も服部谷にあったのか理解に苦しむ点もあるが、最古の郷土史書といわれる『備後古城記』の記事だけに貴重である。


備陽史探訪の会
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