びんご 古城散策・田口義之

■金丸の天神山城
                                   (福山市新市町金丸) 〈120〉

金丸の天神山城跡

 芦田川の支流、神谷川流域は前に紹介した日隈山城の辺りで、北の旧芦田郡域と南の旧品治郡域に大きく二分できる。芦田郡と品治郡は明治になって合併して「芦品郡」になったから良かったものの、旧新市町は本来2郡にまたがった珍しい町であった。
 さて、室町・戦国時代、神谷川流域は、北の芦田郡域と南の品治郡域は領主の異なる地域であった。南の品治郡域には度々紹介する備後最大の豪族宮氏の勢力下にあって、その北端の城砦が日隈山城であった。
 北の旧芦田郡域の金丸、常は大変古くから栄えた地域であった。大字常の品治別神社境内からは1万年以上前の細石器が出土し、芦浦や常の権現には特色のある古墳が発見されている。
 歴史時代に入っても同じで、常は「和名抄」の芦田郡常郷の遺名と考えられ、その東方には古代山城「常城」の遺跡と考えられる亀ヶ岳(標高539㍍)がそびえ、常城に関連する遺跡と考えられている「矢倉田」遺跡もある。
 中世に入ると、一帯は国衙領とされ、広大な「金丸名」の所在地であった。現在の大字金丸はこの金丸名の遺名と推定され、鎌倉時代には「在庁名」となったようで、南北朝時代には在庁竹内弥次郎兼幸が名主職を持ち、兼幸は建武三年(1336)6月11日、甲奴郡有福城に拠って、南朝方の旗を挙げ、尊氏方の山内・三善氏の攻撃を受けている。また、同じく常五郎左衛門尉経康も金丸名の領有権を主張し、暦応四年(1341)には南朝方に走った。

 金丸の神谷川(かやがわ) の 厚山橋(おもやばし) 厚山橋より金丸の郷を望む

 竹内、常の両氏が在庁に出仕し南朝に応じたのは、この地が国衙領として、国府の強い影響下にあったからと思われる。
 この金丸名の拠点となった山城と考えられるのが、常・金丸の谷奥にそびえる天神山城であった。
 新市方面から北に車を走らせると、神谷川は日隈山の辺りで大きく東に蛇行し、一気に視界が開け、左に亀ヶ岳が悠然とそびえ、右正面に前途に立ちふさがるかのように急峻な山容が迫ってくる、これが天神山だ。城名はかつて本丸に天神社が立っていたことに因み、登り口は南麓の厚山辺りにある。新道が出来てわかりにくくなっているが、厚山橋を渡ったあたりで右折し、突き当りで山に入る(もちろんここからは徒歩である)。以前登った時には、ここから天神山の山麓を巻くように山道が存在したのだが、今この道が存在するかどうかは保証できない。
 登山道は、天神山と東の大平山(328㍍)との鞍部に出る。ここからは山頂にでる尾根道があるはずだ。5百㍍ほど歩くと標高357㍍の山頂本丸に到達する。
 本丸は意外と広い。過去の計測では東西120㍍、南北70㍍に達し、南から西に幅10㍍ほどの帯曲輪を巡らし、東に2・3段の小曲輪を築いている。さらに東の尾根には堀切を経て2段の出丸跡が残っている。
 遺構の割には由来のはっきりしない山城である。『備後古城記』金丸村の所には金丸何某、島津何某と記し、続けて「当村に城跡二箇所有、其一箇処は一向城主語り伝えもなく、相知り申さず、壱箇所は城主金丸殿と申し伝え、実名など一円相知り申さず」とあるのみである。 


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