びんご 古城散策・田口義之

■田能城と金丸殿
                                   (福山市新市町金丸) 〈119〉

金丸,田能城跡

 新市町の金丸には、前回紹介した天神山城の他に、もう一箇所、中世の城跡が残っている。それが田能城跡だ。
 新市駅前から県道26号線を北へ、金丸に入ると右手に天神山の秀麗な山容が近付いて来る。以前、県道は金丸の保育所を過ぎた辺りから神谷川の蛇行に沿って大きく西にカーブしていたのだが、最近改良工事によってまっすぐ行けるようになった。田能城跡は、その北端から左折して県道402号線に入り、300㍍進んだ南側の丘陵上に存在する。このあたり分かりにくいが、城跡西麓に位置する浄土真宗西円寺を目指していけばたやすくたどり着けるはずだ。
 地図で見ると、城跡の残る尾根は、天神山から神谷川を挟んで西にそびえる亀ヶ岳山塊から北に延びた支尾根の、わずか比高50㍍ほどの小さな丘にしか過ぎないが、実際に現地を訪ねてみると、北に延びた尾根の両側は絶壁状に落ち込み人を寄せ付けない。「さすが」と言うべきだろう。
 城跡南端に「鉾見崎神社」があり、ここから北に城の遺構が続いている。本丸は、稜線の突端に位置し、南北二〇㍍ほどの長方形の平坦地で、その両端は二重に掘り切ってある。南の神社との間にも平坦な地形が見られ、一朝有事には城郭の一部として利用されたことであろう。
 立地から見ると、田能城跡は小さな河谷平野を支配した在地の小土豪の館城というべきである。だが、その地形と遺構は土豪の館城というには厳しすぎるようだ。天神山から眼下に俯瞰できる立地は、同城の出城の役目を果たしていた、戦術的な城と考えたい。
 田能城が天神山城の出城であったとすると、城の来歴も一体として考察しなければなるまい。
 

    
 『備後古城記』は金丸村の古城主として、金丸某、島津某を挙げているのみだが、『西備名区』はもう少し詳しく城の伝承を記している。それによると、田能城には金丸氏が、天神山城には村田氏が居城し、いずれも府中八尾城に拠った山名氏の旗下にあったという。
 両城が府中の八尾城に拠った山名氏の支配下にあったという伝承は、おそらく事実であろう。天神山城のところで述べたように、一帯は国衙領金丸名として、府中にあった備後国衙の支配下にあった。国衙の支配は、南北朝時代に公家政権の衰退と共に衰え、替わって国衙の権能を吸収した守護が一国の支配者として君臨するようになる。金丸名も当初は国衙の支配下にあったが、守護の成長と共にその支配下に入ったはずだ。『西備名区』の伝承は甚だ漠然としたものだが、案外正確に歴史の事実を伝えているのである。
 天神山の村田氏が後入江氏に従い、父木野(神石高原町)に移ったという伝えも、山名氏の後を神辺城主杉原盛重が継承し、入江氏がその重臣であったことからすると、盛重の支配を伝えたかすかな記憶というべきであろう。


備陽史探訪の会
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