びんご 古城散策・田口義之

■鳶尾山城と有木氏
                                   (福山市新市町宮内) 〈118〉

吉備津神社の御池より見た鳶尾山

吉備津神社の御池より見た鳶尾山

 新市町の神谷川右岸、備後一宮吉備津神社裏山一帯も中世の山城遺跡が多く残るところである。神社の南側に位置する桜山城のことは以前に紹介した。ここから西北に一段高く聳えているのが吉備津神社の山号「虎伏山」の由来ともなっている鳶尾山城跡だ。東側から見ても、西側から見ても急に起立した山容はまさに虎が頭の下に前足を置いて悠然と午睡を楽しんでいるように見える。
 登城には、南の桜山との間の峠辺りからか、神社の南の山頂から東に張り出した尾根を登るのが簡単だ。花崗岩の風化土壌のため、亀寿山城と同じように稜線にさえ取り付けば、道は見つからなくても何とかなる。
 登ってみると、伏せた虎の両肩にかけて4段の曲輪跡を確認することが出来る。何れもやせ尾根を削平して築かれた平坦地で、幅は5から7㍍と狭く、長さも20㍍~40㍍と小規模なものである。
 山頂に位置する主曲輪には興味深い遺構が残っている。それは曲輪の南東端の岩盤上に人工的に穿たれた「穴」で、直径25㌢、深さ50㌢を測る。同じような遺構は、新市の亀寿山城跡、駅家町服部永谷の椋山城跡にも見られ、連絡用の旗を立てた「柱穴」と考えられている。
 鳶尾山から稜線伝いに北に降り、府中の広谷から宮内の連下に通じる舗装道路を渡り、再び険しい稜線に取り付き、登ったところに木曽丸城跡がある。
 稜線に取り付き最初に出会うのは径15㍍ほどの曲輪跡で、そこから鞍部を越え、さらに登ると標高204㍍の山頂本丸に達する。稜線はここから西北の主稜線と、北に伸びた「備秀寺山」に分れ、城の遺構は主に備秀寺山上に存在する。見方にもよるが、山頂から北400㍍の範囲に曲輪跡と思われる平坦地が4箇所ほど存在する。
吉備津神社

吉備津神社本殿。本殿の裏山が鳶尾山城跡

 木曽丸城跡から稜線伝いに約2キロ進むと殿奥城跡に至る。鳶尾山と同じく花崗岩の風化土壌のため尾根上が歩きやすいが、吉備津神社から北2キロの真光谷から登るルートもある。また府中市の「鵜飼工業団地」の裏山に位置するため、工業団地側から登ることも可能だ。
 この城跡も尾根上を削平して曲輪とし、間に空堀を穿っただけの簡単な構造で加工の度合いも低い。一応、標高205㍍の山頂に本丸を置き、東から東南に伸びた陵線上に曲輪を築いて城郭とした様子が見て取れる。
 これらの山城のうち、城主名を伝えているのは吉備津神社裏山の鳶尾山城だけである。鳶尾城は、『備後古城記』その他に、桜山四郎入道、有木小次郎、或いは宮下野守実信の居城とある。桜山四郎入道は『太平記』に登場する人物で備後一宮を城郭として兵を挙げたとある。鳶尾山が桜山氏の詰城の役割を果たしていたことは間違いない。古城記が桜山氏の次に挙げる有木小次郎は、中世吉備津神社の社家を勤めた有木氏の一族である。神社との位置関係から、この城が神社の「詰城」の役割を持っていたことも事実として認めてよかろう。宮下野守云々の伝承は、一帯が宮氏の勢力圏にあったことを示すもので、事実とは認めがたい。いずれにしても、遺構の特徴から南北朝期の築城で、以後余り手が加わっていないようである。


備陽史探訪の会
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