びんご 古城散策・田口義之

■銀山城と杉原氏(8)
                                     (福山市山手町) 〈117〉

城主杉原氏の菩提寺  三宝寺(福山市山手町)

 城跡に残る遺構から見て、盛重が神辺城主となった弘治三年(一五五七)春以降も、城は盛んに修築を繰り返されていたことが想像される。
 山城は単に築城されただけではだめである。大雨の度に切岸は崩れ、堀は埋まる。室町から戦国にかけての文書を読むと、郷村や地侍に対し、毎年のように「城誘(しろこしらえ)」の人夫役が賦課されていたことが分かる。
 この城誘の人夫は新たな築城のために動員されただけではない。崩れたり、新たに城に手を加えるために動員された人夫も加わっているのである。
 銀山城に残された遺構を見ると、築城当初から備わっていたと推定される曲輪跡以外にもさまざまな遺構が残っている。畝状竪堀群は永禄から天正にかけてのものだし、石垣や枡形は同時かそれ以降のものだろう。
 そうすると、現在地表に残る城の遺跡は盛重が神辺城主となって以降のものということになる。これは大変重要だ。
 一般に、備後南部の戦国史は、神辺城が落城し、盛重が神辺城主になった以降は、地域の戦乱も収まり、時代は近世へと移行するとされる。だが、銀山城や各地に残された山城の遺構を見ると、これは誤りのようだ。畝状竪堀群や石垣が一番顕著に見られるのは備南の山城で、このことはこれらの山城は天正年間に入っても盛んに修築が繰り返されていたことを示し、この時期になっても地域の緊張状況が解けていなかったことを教えてくれる。何故そうなのか…。

銀山城跡曲輪に残る石垣

 考えられるのは、この地域の国人衆の独立性の高さである。彼らは毛利氏の支配下に入っても独自性を失わなかった。自らの拠って立つ基盤は「山城」である。最後の拠点としてそれを失うわけにはいかない。城を失った時が自らの立場を失う時であった。よって、彼らは依然として山城に拠り、修築を繰り返した。これがこの地域の山城が規模の大小こそあれ立派な理由である。天正一九年(一五九一)、毛利氏は大規模な給地替を断行、多くの国人衆は他国に移されるか、領地を没収されて没落した。この時をもって山城は使命を終えることになるが、それは城主であった国人衆の独自性の喪失と裏表の関係にあった。
 銀山城は盛重が神辺城主となった以後も、杉原氏の家城として修築が繰り返されたはずだ。城は一族や横山氏、高橋氏をはじめとする宿老衆によって厳重に防備されていたと思われる。
 天正十二年(一五八四)八月、盛重の次男景盛が毛利氏によって滅亡させられた以降も、銀山城は杉原氏の家城として存続したものと推定される。毛利氏は杉原氏を続滅せず、神辺城を奪ったのみで、盛重の末子少輔五郎(後の少右衛門尉広高)に千四百貫の所領を認めているからだ。おそらくその所領は銀山城下の山手、本庄一帯であろう。
 銀山城が最終的に廃城となったのは、杉原氏が備後から出雲に移された、天正一九年のことと判断される。


備陽史探訪の会
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