びんご 古城散策・田口義之

■宗岡城と宗岡氏
                                (福山市御幸町下岩成)  〈102〉

宗岡城跡の城内の一角にある、深津神社の社殿

 山名理興の後、神辺城主となった杉原盛重は極めてなぞの多い人物である。一応、備後の名族であった杉原氏の出身ということになっている。山手銀山城の杉原氏の後裔の伝えた系図によると、南北朝時代に活躍した杉原為平の曾孫匡信の子に理興があり、盛重はその次男という。だが、理興が山名氏であったことが明らかになった今、この系図は偽作と看做される。
 盛重の出自を物語る資料は外にも何点かある。その一つは、御幸町の深草大明神の縁起に付随して伝えられてきた、宗岡氏出身説だ。
 備後三大郷土史書のひとつ『備陽六郡志』の著者宮原直倁は、藩吏としてよりも文人として広く知られていた。宝暦七年(一七五七)冬、下岩成村の庄屋久五郎が同村の深草大明神の由緒を書き記した書類を真字(漢文)で清書して欲しいと依頼してきた。これが「下岩成村深草大明神来由」で直倁が六郡志に収めたため、今でも見ることが出来る。この文書に盛重の出自を記した次の箇所がある。
「備陽、深津群、下岩成邑ニ、宗岡叢ト云フアリ、往昔山手ノ城主宗岡播磨守盛重舊館之地也、盛重杉原(山名が正しい)宮内少輔忠興(理興が正しい)之遺跡ヲ続テ杉原ト号シ神辺之城ニ移ル(下略・原漢文)」
すなわち、盛重は下岩成の土豪宗岡氏の出身で理興の跡目を次いで神辺城主となり杉原を名乗ったという。直倁はこの話を信じていたらしく、六郡志の外編分郡山手村のところにも
古城壱ヶ所 宗岡伯耆守、同備前守、同播磨守に至て杉原宮内少輔卒後、吉川元春の命に仍て名跡となり杉原と改む。
と、盛重が宗岡氏の出身であったことを前提に記述している。
 では、この説が正しいかというと、それはどうも怪しい。盛重の出自を宗岡氏とする説は、駅家町江良の広徳院に伝えられていた左の位牌に起源があるようである。

宗岡城跡付近の現在の風景

(表)当寺本願前播州太守天宅清公禅定門 神祇
(裏)天文三年甲午三月五日
 直倁は、この位牌を盛重の位牌と即断しているが明白な誤りだ。盛重の没年は天正九年であって戒名も「大安宗広」大居士という。彼が何故このような初歩的な誤りを犯したのか、今となっては分からないが、下岩成一帯の土豪として「宗岡」氏が存在したのは確かだ。広徳院は元上岩成村(御幸町上岩成)にあって宗岡氏の菩提寺であった。
 『西備名区』はこの宗岡氏の系譜を宗岡播磨守延清、同播磨守成満、同次郎延広、同又三郎延重と記し、歴代山名、大内氏に従い、天正年中没落したとも、尼子に属して出雲に移ったとも伝えている。
 宗岡氏の拠ったという宗岡城の跡は全くの平地で、今は地上に痕跡を残していない。ただ、現地を訪ねてみると、跡地周辺には用水路が囲繞し、用水を支配した中世土豪の面影に触れることが出来る。なお、宗岡城の跡地は近世に入っても館として利用されたようで、城内の一角には福山藩水野氏の茶屋があったとされ、深草神社の社殿には今も水野氏の家紋「沢寫(おもだか)」を見ることが出来る。


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