びんご 古城散策・田口義之

■要害山城跡を歩く
                                (福山市神辺町徳田)   〈096〉

神辺が生んだ日本を代表する漢詩人菅茶山坐像

神辺が生んだ日本を代表する漢詩人菅茶山坐像

 要害山城跡は、その山容から茶臼山城とも、西の中腹に天神さんが鎮座することから天神山城とも言う。神辺城から北3キロに相対し、ここに神辺城攻撃の「向城」が築かれた意味がよくわかる。
 神辺が生んだ日本を代表する漢詩人菅茶山は、この茶臼山と神辺黄葉山を朝な夕なに眺めて生活し、その私塾を黄葉山にちなんで「黄葉夕陽村舎」と名付け、自らの号は茶臼山からとって「茶山」と号した。
 今神辺旭高校の建つ南麓一帯を「秋丸」と呼ぶ。毛利氏や平賀氏など「安芸衆」が陣を張ったため「あきまる」の地名が生まれたというが、古く奈良時代の『日本霊異記』にすでに「秋丸」が「穴君弟公」の伯父として登場し、地名の起源は古代にさかのぼる可能性が高い。
菅茶山記念館(神辺町大字新湯野30番地)

菅茶山記念館(神辺町大字新湯野30番地)

神辺天神神社拝殿

神辺天神神社拝殿


 最近まで、要害山から山王山にかけての独立丘陵を「五箇手島」と呼ぶとする見解が郷土史家の間で定説化していたが、新史料の発見が相次ぎ、この考えは誤りであることが分かった。五箇手島は「五箇庄」の中にある「手島」と言う意味で、以前に紹介した手城町の「手城島城跡」のことである。要害山山塊を五箇手島としたのは、神辺平野に「穴海」が存在したという伝説から、平野に島状に隆起する同山塊が記録に見える五箇手島に当てられたもので、史料的には何の根拠もないものである。
 城跡は、近年測量調査が行われ、大変興味深い城郭遺跡であることが明らかになった。
 登山口は、西側の天神社境内にある。社殿向かって左手奥がそれで、歩きやすい山道が整備され、徒歩十分で山頂城跡に到達する。登山道は一部城壁を破壊して設けられ、登山者は、容易に空掘、土塁の形状を見分けることが出来る。
 山頂本丸は南北に長い楕円形をしている。思ったほど平坦ではなく、西側が高くなり、石鎚神社が建っている。埴輪が出土するのはこの当りで、かつて昭和初年、この地を訪れた早大西村真次教授は、ここで突然の夕立に見舞われたのであろう。
「埴輪掘る 要害山に 夕立す」と詠んでいる。
 この城跡で特徴的なことは、近世城郭で完成された「横矢がかり」「枡形」などの高度な築城術が見られることである。
 「横矢がかり」は「折れ」ともいう。堅固な城を築くには城壁に「死角」を作らないことだ。「横矢がかり」は城壁を屈曲させることで「死角」を出来るだけ無くしたものである。要害山の城壁は何箇所もの出っ張り部分を作り、ここに「矢倉」を建てることで、城壁を攀じ登ってくる敵を撃退しようとした。

山頂本丸西側に鎮座している 「石鎚神社」

山頂本丸西側に鎮座している 「石鎚神社」

 「枡形(ますがた)」は、城の出入り口である「虎口」が高度に発達したものである。原始的な山城は虎口に城門を設けただけであるが、戦乱が続くと虎口は次第に複雑になり堅固になっていった。
 「枡形」の「枡」は、そのものずばり量りの「枡」から来ている。虎口に、塀で囲まれた、枡のような四角い空間を設け、その二辺に城門を設ける。そうすると、攻め手が城内に侵入するためには二つの城門を破らなければならず、もたもたしていれば「枡形」の中で袋叩きに遭う。福山城の大手門や他の近世城郭はみなこの枡形で防備を固めている。
 天文一七年(1548)からわずか1年しか存在しなかった要害山城が「横矢がかり」と「枡形」と言う高度な築城テクニックで防備されていたのは「驚き」の一語に尽きる。

本丸南側より神辺市街地を眺望

本丸南側より神辺市街地を眺望


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