びんご 古城散策・田口義之

■竜王山城
                                (福山市神辺町下竹田)   〈094〉

下竹田の集落

下竹田の集落

 7年に及んだ神辺合戦、地域全体を巻き込んだ戦いであっただけに、神辺城の出城があったと伝わる場所も多い。
 神辺黄葉山城は、標高二百三十一㍍の権現山から西に延びた尾根の先端に築かれているが、北や南に派生した尾根上にも、点々と中世山城の遺構が残っていて、神辺城の出城の跡と伝えられている。
 神辺町下竹田と平野の境界線上に存在する竜王山城もその一つだ。
 竜王山は、権現山の山頂から真北に延びた尾根の突端で、山頂に竜王社が存在するところからそう呼ばれる。
 私がはじめてこの城跡を訪ねたのは高校1年生の時だから、もうずいぶん昔のことである。目的は、この城跡ではなく、城跡から東北に延びた尾根上に存在する「辺木山古墳群」を見学するためであった。登り口は、東の麓にある農協の倉庫辺りにあった。尾根道を登ると中腹あたりで、大きく口をあけた盗掘口に出くわした。三㍍×二㍍程の長方形の土抗で底に箱式石棺か竪穴式石室の残骸のような石列があり、確かに古墳の跡だ。「盗掘口」と書いたが、『備後史談』に昭和初年、早大の西村真次教授が下竹田で古墳を発掘した記事があり、その跡かもしれない。山頂までの間に、このような石棺の跡のような土抗が何ヶ所か見られた。
 山頂は2段に削平され、下の段に竜王社の祠があり、上の段に径一〇㍍、高さ二㍍程の、見た目にもはっきりと古墳と分かる土饅頭がある。未盗掘の円墳であった。
和名木城麓の風景

和名木城麓の風景

この二段に削平された山頂が中世城跡であることを知ったのは、それから4・5年後のことだ。昭和50年代の初め、神辺黄葉山の山頂本丸に歴史民俗資料館を建設する話が持ち上がり、神辺城の発掘調査が行われた。その発掘調査の報告書ではじめて竜王山城も神辺城の出城の一つとして紹介され、かつて登ったこの山が中世山城であったことを知ったわけだ。
 ただし、その後は一度もこの城跡を訪ねたことはない。1995年の発行された『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第三集にも採り上げられているが、県の調査員は「従来城跡があるとされた丘陵頂部では遺構を確認できなかったが、そこから北西に延びる丘陵先端部で平坦面を確認した」として、私が登ってこの目で確認したことのある竜王山山頂の平坦面を見逃したようだ。古い白黒の写真で恐縮だが、当時撮った山頂の写真を掲載させてもらい、確かに平坦面があることを見てもらいたい。
 城主についての記録は、『備後古城記』『西備名区』をひも解いても見当たらない。しいて言えば平野村の古城主として見える長田左京亮がそれにあたるであろうか。長田氏は神辺城主山名理興、杉原盛重に仕えた武士で、盛重の奉行人にも長田氏があり、『陰徳太平記』にも盛重の家人としてその名が見える。
 下竹田から八尋にかけては、記録に見えない、伝承だけの山城が多く残っている。何れもこのような若干の曲輪あととおぼしき平坦地が残り、神辺城と何らかの関係があった山城と考えられる。
神辺町八尋西から見た和名木城跡

神辺町八尋西から見た和名木城跡



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