びんご 古城散策・田口義之

■風雲の神辺城 山名理興と神辺合戦
                              (福山市神辺町)(その参)    〈091〉

月山富田城遠望

月山富田城遠望  (城跡巡り備忘録提供)

 尼子氏の敗北は、ライバル大内氏にとってはチャンスであった。義隆は父の先例を追って上洛の野心を持ち、この機会に尼子氏を徹底的に叩き、上洛の道を切り開こうとした。
 情勢は有利であった。今まで尼子氏に従っていた備芸雲石の国人衆の内、備後の三吉安房守致高、多賀山新兵衛尉通続、山内新左衛門尉隆通、宮若狭守隆信、出雲の三沢三郎左衛門尉為清、三刀屋弾正左衛門尉久扶、宍道遠江守、河津民部左衛門尉、古志因幡守、本城越中守常光、石見の福屋式部少輔隆兼、出羽主膳正助盛、安芸の吉川冶部少輔興経などの錚々たる武将が大内氏に寝返り、「義隆朝臣出雲へ御発向候はば、おのおの十三人御味方に参じ、先陣に進み申すべし」と、そろって義隆の重臣陶隆房の元へ願い出たという(陰徳太平記など)。
 この話、出来過ぎていて信じがたいところもあるが、毛利元就も「備中備後安芸石見、多分に防州一味(郡山篭城日記)」と書き残しているから、大内氏に有利な情勢が生まれたのは事実であろう。
 後に「風流大名」の名を残し、家臣の信頼を失って身を滅ぼした義隆も、この頃はまだ軍事に意欲を持っていた。
 こうして大内義隆の出雲遠征が始まった。義隆は天文十一年(一五四二)正月十一日、周防山口の大内屋形を発した。従うものは陶隆房、内藤興盛、杉重矩以下一万五千、安芸国府で芸備の諸将と合し、石見路から出雲に向かった。わが山名理興も毛利元就と轡を並べて大内菱の旗の下に従った。
新高山城麓から遠望

新高山城麓から遠望 (城跡巡り備忘録提供)

大内氏の出雲遠征は失敗に終わった。翌天文十二年(一五四三)二月、義隆は尼子氏の本拠冨田月山城を見下ろせる京羅木山に本陣を移し、本格的な攻城戦に取り掛かった。だが、郡山合戦で敗北したとは言え、尼子の力はまだまだ強力であった。しかも、その居城冨田月山城は戦国三名城に数えられるほどの鉄壁の構えであった。攻めあぐねるうちに味方の士気が衰えて行った。地理に詳しい尼子方はゲリラ戦を展開して大内方の糧道を脅かした。
 勝敗を決したのは大内氏に従っていた筈の備芸雲石の国人衆の「裏切り」であった。四月晦日、三沢、三刀屋、吉川、山内などの諸将は冨田月山城を攻めると見せかけて、大手門に殺到、そのまま城内に入ってしまったのだ。京羅木山からこの状況を眺めていた義隆主従は驚愕した。今度は自分たちの身が危ない。軍を返した大内方は各地で尼子勢の追撃を受けながら、命からがらそれぞれの居城へ逃げ帰った。退却の際には義隆の嗣子恒持は味方に取り残されて水死し、安芸高山城の小早川正平は農民の襲撃を受けて討ち死にした。毛利元就が単騎山内氏を頼って同氏の甲山城(庄原市)に入城したというのはこの時のことだ。
 わが山名理興が大内氏を裏切ったのもこの時であった。『陰徳太平記』などでは率先して富田城に入城したのは理興であったとも言う。
 ともあれ、こうして理興は大内・毛利氏の「敵」となり、足掛け7年に及んだ神辺合戦の幕が開くこととなった。

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