びんご 古城散策・田口義之

■風雲の神辺城 山名理興と神辺合戦
                              (福山市神辺町)(その弐)    〈090〉

神辺城跡黄葉山に神辺歴史資料館

神辺城跡黄葉山に神辺歴史資料館が聳えています。

 神辺合戦は、理興が大内方から尼子方に「現形(げぎょう・寝返ること)」したことによって始まった。これは当時の中国地方で起こった大きな二つの合戦と関連があった。
 神辺合戦が戦われた天文年間(1532~54)は、百年に及んだ戦国時代の丁度中間に位置し、その転換点となった重要な時期であった。広く全国を見渡すと、中央では三好長慶が入京して将軍を近江に追い、幕府を中絶に追い込んだ。これにより数年間は三好長慶が最高権力者として京都に君臨した、いわゆる三好政権の成立だ。東国でも北条氏綱が下総国府台の合戦で足利義明を敗死させ、古河公方家を有名無実化させた。
黄葉山の麓に山名氏ゆかりの天別豊姫神社

黄葉山の麓に山名氏ゆかりの天別豊姫神社

戦国はまさに最高潮に達しつつあった。信長(天文3年生)・秀吉(天文5年生)・家康(天文11年生)と続く後の「天下人」がみなこの天文年間の生まれであることも象徴的な出来事であった。
 中国地方の情勢も例外ではなかった。大内・尼子が手痛い打撃を被り、毛利元就がこの両雄を押しのけ、戦国大名に飛躍して行く基礎を築くのもこの時代であった。
 最初に敗北の苦渋を味わったのは尼子氏であった。「陰陽十一州の太守」と呼ばれた尼子氏は、経久の跡を継いだ孫の晴久が大内義興の先例を追い「上洛」の野心を持ち、盛んに播磨方面に兵を出した。尼子氏の勢いは凄まじく播磨守護赤松晴政は居城置塩城を逃げ出し、室の津に逃亡、ここにもいたたまれず、遂には泉州堺に没落した。石山本願寺の証如上人は尼子氏のこの動きを「いずれも敵は無く候」とその日記「天文日記」に記した。だが、晴久は天文八年(1539)播磨で越年した後、そのまま兵を京に進めず出雲に撤兵した。

国道313号から見上げる黄葉山城跡

国道313号から見上げる黄葉山城跡

天別豊姫神社へ参道 天別豊姫神社へ参道

天別豊姫神社へ参道

安芸で尼子の橋頭堡となっていた平賀興貞の頭崎城が陥落の危機に陥り、俄然その背後が騒がしくなってきたためであった。もちろんその中心は安芸郡山城にあって力を蓄えつつあった毛利元就であった。晴久は元就の郡山城を攻め落とし、背後を固めた上で上洛戦を敢行しようとした。こうして起こったのが有名な「郡山合戦」だ。
 合戦の結果は尼子氏の記録的な敗北であった。郡山城を強化し篭城戦に持ち込んだ元就に対して、「三万」を号した尼子勢は有効な手を打てず、もたもたしているうちに大内勢一万の援軍が郡山南東の山田中山に着陣した。天文九年(1540)十二月二日のことであった。こうなると尼子に打つ手は無かった。翌天文一〇年(1541)正月十三日、尼子軍はなだれを打って出雲に逃走した。「犬伏山の雪に漕ぎくたびれ、石州江の川にて、あるいは船を乗り沈め、或いは渡りへ追い出され、死に候ものさらにその数を知らず」という有様であった(毛利元就「郡山篭城日記」)。
 山名理興はこの時、まだ大内方にあった。理興はこの合戦の最中、元就に「陣中見舞い」の使者を派遣したと伝わっている(陰徳太平記)。
「天別豊姫神社」 の拝殿を飾る額

 黄葉山の北麓に鎮座されている 「天別豊姫神社」 の拝殿を飾る額

正一位稲荷神社 天別豊姫神社本殿
正一位稲荷神社 天別豊姫神社本殿
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