びんご 古城散策・田口義之

■風雲の神辺城 山名理興と神辺合戦
                              (福山市神辺町)(その壱)    〈089〉

神辺城跡に咲く春のさくら

山名理興の旧城・府中八尾山城跡

 山名理興の名を最も高からしめたのは天文十二年から同十八年までの、足掛け七年に及んだ神辺合戦だが、その前にもう一度確認しておきたいのは、神辺城主としての理興の地位、立場である。
 従来の通説では、杉原氏の出身であった理興が「山名氏」を称したのは「備後守護の伝統を受け継ごうとした彼の野心の表明に違いない(福山市史上巻)」とされてきたが、理興はそもそも山名氏の一門の出であったとすると、別の解釈をしなければならない。
 当時の一級史料で理興の立場を述べたものはほとんど無いが、少し後の史料ではあるが天正十九年の小早川隆景の書状に注目される記述がある。
府中八幡神社の境内

八尾山城跡への上り口。府中八幡神社の境内

「八ツ尾城跡」の案内板

八幡神社の近くまで登ると「八ツ尾城跡」の案内板

八幡神社の右側をどんどん登っていきます。歩き安い道でした。


 (前略)左候ところ尼子方郡山に至り取り懸かられ候て、既に敗軍候条、その節備後悉く大内殿御存分に任され、神辺城主山名宮内少輔方備州外郡を出し置かれ候間(後略)

 この書状は天正十九年(一五九一)神辺城主となった毛利元康(元就の七男)が沼隈郡山田(現福山市熊野町)の渡辺氏の所領を取り上げたのに対し、隆景が元康に渡辺氏と毛利氏の深い関係を述べ、所領の没収をやめるように諭したもので、その中の一節がこれだ。
 隆景は天文一六年(一五四七)四月、神辺城の出城を攻略した「坪生要害合戦」で初陣を飾っているから、よもや思い違いはあるまい。
 この記述を素直に受け取ると、天文一〇年(一五四一)の郡山合戦で尼子氏が敗退した後、理興は大内氏に味方し、大内氏から「備州外郡」を与えられたことになるが、果たしてそうであろうか…。
 天文初年から一〇年(一五三一~四一)にかけての芸備地方は、尼子氏が最も勢力を伸張した時代であった。天文五年(一五三六)、山内氏の備後甲山城(庄原市)に入った尼子経久は、当主直通を引退させ、自分の息の懸かった婿法師(後の隆通)を当主に就けた。また同年には安芸平賀氏の家督争いに介入、頭崎城主平賀興貞を助けその父弘保と戦った。この頃の尼子氏の勢いは相当なもので、毛利元就は「頭崎」の時、「備後三千貫」や芸北の所領を失ったと述べている(毛利家文書)。
 この頃の理興の動向は明らかでないが、大内氏方にとどまっていたと見ていい。天文六年から八年(一五三七~三九)にかけて、尼子氏は播磨に進出して上洛を窺うが、この時、尼子に従った備後の諸城主の中に山名理興の名は無い(天文日記)。 理興の「備州外郡」支配は、天文一〇年以前にさかのぼると見ていい。
 ここで注目されるのは天文年間の備後守護の存在である。山名氏が享禄元年(一五二八)まで備後守護として国内の国人衆に指令を発したのは間違いない事実だ(萩藩閥閲録六七等)。
 だがその後天文二二年(一五五三)まで守護山名氏の足跡は途絶える。これは何を意味するのか、幕府が大内義隆が滅亡した後天文二一年(一五五二)四月、尼子晴久を備後など八カ国の守護職に補任しているのを見ると(佐々木文書)、この間大内氏が備後守護の地位にあったと見るべきであろう。そして、山名理興は大内氏の「守護代」として、備後外郡の支配を任されたのに違いない。

頂上から市街地を一望

 城跡に到着するのに約50分ぐらい。 頂上から市街地を一望。

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