びんご 古城散策・田口義之

■風雲の神辺城 山名理興の登場(福山市神辺町) (その4) 〈087〉

府中市北側に聳える八尾城跡

府中市北側に聳える八尾城跡

理興が銀山城主杉原氏の出身でないとすると、改めて問題となるのはその出自だ。 実は、『福山市史』が理興の出自を山手杉原氏としてそれが「定説」となる以前、理興の出自として有力視されていたのは府中の八尾城が理興の旧城とする一連の伝承であった。
 備後三大郷土史書の一つで最も古いとされる『備陽六郡志』は、その「後得録」芦田郡本山村のところで次のように記している。
 「八尾の城山名宮内少輔理興の古城なり。旗立石というあり、旗を立てたる穴あり」
また、『福山志料』も巻之七「人物」のところで、「忠興亦理興トモ云姓ハ山名トモ杉原トモ称スモト芦田郡八尾ノ城主ニテ信平カ裔なり」と、「杉原氏出身説」を採りながらも、理興は元八尾城主であったと述べている。
 八尾城は府中市街地の背後にそびえる、備後南部を代表する中世山城である。杉原氏の元祖伯耆守光平が鎌倉時代、備後守護職に補任され築城したとされる(三備史略など)が、以後杉原氏がこの城に拠ったとする確証はない。かえって史料は、八尾城が備後守護山名氏の拠点であったことを物語っている。
 「山名刑部少輔某(惣領)備後国に乱入、国府城を奪い取り、之に立て籠もる。よって守護兵兄押し寄せ之を攻め、件の刑部少輔を討ち取り首を京都に召し進む(『薩戒記』永享九年八月一日)」

府中八幡神社の登り口に八尾城跡の案内板があります。

府中八幡神社の登り口に八尾城跡の案内板があります。

八尾城山頂 「妙見社」  休憩所に

八尾城山頂 「妙見社」  素晴らしく広い広場。休憩所にしては申し分有りません。  トイレも完備しています。八幡神社から約40分は要しました。

八尾城跡山頂から発展している府中の町並みを眺望


 この史料は、永享九年(一四三七)夏、弟持豊が山名氏の家督継承者に決まったことに不満を持った兄持煕が備後で挙兵し、国府城を奪取して立て籠もり、持豊の軍兵に討ち取られたことを伝え聞いた京都の公家の日記の一節で、「国府城」とあるのが八尾城のことである。
 また、『渡辺先祖覚書』にも、応仁の乱で西軍が勝利し東軍山名是豊が備後から追放された後に、守護代が八尾城に入城したことを伝えている。
 「宮田備後守殿様守護代として御下向にて府中八尾に御在陣候」
 宮田備後守は西軍方の備後守護山名政豊が派遣した守護代で実名を教言という。これらの記録から八尾城が室町時代には備後守護山名氏の重要な拠点となっていたことは間違いなかろう。
 八尾城に関する伝承の中で気になるのは伯耆山名氏との関連である。『西備名区』は理興の父を「時興」とし、「一名伊豆守。山名家の一族にて、伯州米子を領し、尾高の城主なり。山名家衰微により、この所に移る。尾高にあって当城兼領せしなり。」と述べている。
 この記述は理興の跡を継いだ杉原盛重が伯耆尾高城主となったことから、さかのぼって時興が伯耆尾高城主であったとされたとも考えられるが、理興が伯耆山名氏の一族であったことからその跡目の盛重が尾高城主となったとしても良いのである
(木下和司「神辺合戦と山名理興」『続山城探訪』)。

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