びんご 古城散策・田口義之

■神辺、謎の古城山 (福山市神辺町川南)        〈081〉

古城山建つ古城八幡宮拝殿

古城山に建つ古城八幡宮拝殿

古城山八幡宮の鳥居

古城山八幡宮の鳥居

鳥居を潜り石段を望む(急な石段でした)

鳥居を潜り石段を望む(急な石段でした)

『神辺町史』前編によると、古城山は大きな前方後円墳だという。以前この山から石棺が発見され、中から人骨と共に勾玉などが出土したからだが、町史の言う2百㍍の大前方後円墳というのはちょっと信じがたい。古城山の東の山塊に、「足長古墳群」や平野の「江草古墳群」が存在するから、かつて発見された石棺は、その一部と見たほうが良いだろう。
 現在、山頂の南に南面して八幡神社が祀られている。背後に残丘があり、土師器のかけらが散らばっている。古墳とすればこの丘が怪しい。直径10㍍の小円墳とするのが正しいようだ。

八幡宮の境内の左側にある古墳

八幡宮の境内の左側にある古墳

神辺城は、通説では、浅山備前守が建武二年(1335)十一月、今の黄葉山に築城したことになっている。浅山備前守は、正しくは朝山次郎左衛門尉景連といい、建武の中興でいち早く後醍醐天皇に味方し、その勲功によって備後守護職を拝領、この地にやって来た。元々は出雲国の豪族で、子孫に信長に重用された朝山日乗がいる。
 通説では、朝山氏の築城以後、神辺黄葉山城には歴代の備後守護職が居城し、城下の神辺は備後の中心として栄えたとされる。
 この説は、戦国時代、山名理興が城主となった天文年間(1532~55)以後は正しい。
 だが理興以前は大いに問題がある。先ず、備後守護を世襲した山名氏の守護所は、最近の研究では尾道に置かれていたことが明らかになった。歴代守護は京都、或いは山名氏の本拠但馬国に居て、備後には守護代を派遣した。守護代を勤めたのは太田垣氏で、同氏が本拠としたのが尾道の赤城であったことは以前に紹介した。

境内は広く 「狛犬さん」 が歴史を物語っているようです

境内は広く 「狛犬さん」 が歴史を物語っているようです

神辺歴史資料館 黄葉山(神辺城跡)

古城山を下りて313号線より左手に、黄葉山(神辺城跡)と神辺歴史資料館が良く見えます。

山城の歴史で、黄葉山の山頂のような高峻な場所に城が築かれるようになるのは、室町中期以降である。
 山城は鎌倉末期に「悪党」の根城として歴史の表舞台に登場し、南北朝時代には「楠本城」或いは赤松氏の「苔縄城」、備後でも府中市上下町の「有福城」など、文献上で多数の「城」が見られる。しかし、それらの城の多くは、現在ほとんど遺構がないか、あっても戦国期に手が加えられている。南北朝期の城は自然地形を最大限利用し、人手はほとんど加えられていないのが一般的だ。
 山城が本格的に築城されるようになったのは、室町中期以降のことだ。義満、義持、義教の「花栄三代」全盛を極めた室町幕府も嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」で将軍義教が赤松満祐の反逆で暗殺されて以後、幕府は義勝・義政と幼少の将軍が続き、幕府権力は秋の夕陽のようにつるべ落としに衰退していった。そして、幕府は守護大名の党争の場となり、遂に「応仁の乱」の勃発によって、世は戦国乱世に突入する。
 山城は、こうした社会不安の中で各地に続々と築かれていった。南北朝期の城と違い、居住性と恒久性を持つようになった山城は、やがて大名・国人の居城として整備され、高石垣の上に白亜の天守閣が聳える、近世の城に連なっていく。
 こうした「城の歴史」を振り返って見ると、南北朝期の神辺城は「古城山」の城こそふさわしい。では、黄葉山の山頂に城を築いたのは誰か、次の課題である。

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