びんご 古城散策・田口義之

■梅谷城と三吉築前守 (福山市神辺町下竹田)    〈078〉

和名木城跡

西から見た和名木城跡(神辺町八尋)

中世「高富庄」と呼ばれた、神辺町上下竹田、八尋地域には、今まで紹介した大内山城、明顕山城、鼓ヶ岡城のほかに少なくとも二箇所の城跡が知られている。下竹田の梅谷城と、八尋の和名木城だ。
この内、中世山城の遺構が良好に保存されているのは和名木城である。
 福山市の坪生から県道を神辺方面に向かうと、竹尋小学校を過ぎた辺りで、有名な「嫁入らず観音」に行く道と交差する。この道を右に入ると、「ギンギンぎらぎら夕日が沈む」で知られた作詞家葛原しげるの生まれた八尋で、城跡はしげるの生家に向かい合うように北面してそびえている。
 城跡の高さは麓から50メートルあまり、誰でも登れそうな小山だ。城跡には、東の「森」からが良いだろう。車は「神辺工業団地」入り口辺りに置き、集落の中の道を登っていく。城跡の直ぐ下に小さな神社があり、ここから2数分で山頂に到達する。

「葛原しげるさん」の生家付近の風景 「葛原しげるさん」の生家付近の風景

「ギンギンギラギラ夕日が沈む」の作詞家 「葛原しげるさん」の生家付近の風景

赤い屋根のお家が葛原しげる先生の生家

赤い屋根のお家が葛原しげる先生の生家、ちょうど和名木城跡と向かいあっている

山頂は東西20㍍、南北50㍍ほどの広い平坦地になっている。この平坦地の南端辺りに十㍍四方の櫓台状の高まりがある。人呼んで「人呼びの丘」という。用途は不明だが、城の中心的な櫓が建っていたに違いない。曲輪跡は北に一段下がってもう一つ残っている。背後の尾根続きには不鮮明ながら2条の空堀も残っている。典型的な室町後期の山城跡だ。
 ただし、城主に関しては何も伝わっていない。城跡の西の谷を「和名木」という。この谷の西に聳えているのが以前紹介した「大内山城」だ。或いは和名木城は大内山城の出丸なのであろうか。
 和名木城が、遺構をしっかり残しながらも由緒がはっきりしない山城であるのに対し、梅谷城は、逆に城主の伝承のみあって遺構のはっきりしない山城である。

福正寺

葛原しげる先生生家の東側には 「福正寺」真宗のお寺がありました。

一応、城跡は下竹田字梅谷南方の標高177㍍の山頂付近にあることになっている。ただし、現在までのところ、その遺構を確認した者はいない。1995年発行の「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」第3集でも「遺構不明」なっている。遺憾ながら私もまだ登ったことはない。詳細を知っている方が居られたら、是非教えて欲しい。
 城跡の存在ははっきりしないが、江戸後期の地誌「西備名区」にははっきりとその存在が記録されている。
 すなわち、その巻三十四、安那郡下竹田村のところに、
「梅谷城
 三吉筑前守康俊
  三次郡三次の城主なりしが、毛利輝元卿の時、備前合戦の刻み軍功無く、その以前、備中合戦に不覚ありとて三次を改易せられ、僅かに小地を賜り此に移り、杉原に従いて此地に住すという」、とある。
ただし、「三次郡三次の城主」云々は誤りである。三次の城主が三吉氏であったことは事実だが、輝元の時代、三次比熊山城には三吉広高・元高父子がいて、一万石以上を領していた。筑前守康俊はこの広高の一族で、故あってこの地に来たり、神辺城主杉原盛重に仕えたとした方が良いだろう。

神辺市街地に向かってなだらかな神辺平野は続く

神辺市街地に向かってなだらかな神辺平野は続く

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