びんご 古城散策・田口義之

■掛平山城と福田氏 (福山市芦田町福田)      〈072〉

掛平山城跡

芦田川より臨む掛平山城跡(福山市芦田町)

備後国人福田氏の城として、もう一つ知られているのは、利鎌山城から有地川を挟んで北に位置する掛平山城である。
 掛平山城は、岩見の端城、魚見原城とも云い、芦田川に臨む断崖上の山城だ。
 芦田川右岸の土手道をずっとさかのぼって行くと、「福戸橋」の辺りから左手に黒々とした山塊が道路上に押し被さるように迫ってくる。これが掛平山だ。
 「岩見の端」「魚見原」の別名は、城下に芦田川が流れ、大きな「淵」となっていることから名付けられたのであろう。尾根続きを西に行くと4キロで有地氏の相方城に達する。城の立地からも福田氏と有地氏が競合する国人領主であったことがわかる。

掛平山城跡から西に4キロいくと相方城跡に達する。相方城跡

相方城の天守閣跡

相方城の天守閣跡

石積のレプリカ

天守(主郭)跡に石積のレプリカ

『西備名区』によると、この城には、初め福田遠江守の舎弟小野九左衛門常延が拠り、福田氏没落の後、光成氏が有地氏の「与力」としてこの城に拠ったという。
 前回も述べたように、天文、弘治年間の福田、有地氏の合戦は伝説の域を出ない。
 郷土史書に伝える合戦記は虚構に過ぎないとは言え、両氏が隣接する国人領主として時に対立する存在であったことは事実である。有地氏の大谷、鳥の奥城、福田氏の利鎌山城の要害堅固さは何よりも雄弁にこのことを物語っている。
 事実関係を明示し得ないのは残念だが、有地氏の相方築城は、両氏の勢力関係に「変化」があったことを物語っている。掛平山の標高83㍍に対して、相方の城山の標高は191㍍、相方城が築かれた天正初年(1575頃)に至って、有地氏の勢力が福田氏のそれを凌駕したことを示している。或いはこのことが福田盛雅の美作枡形入城に関係しているのかもしれない(逆もまたあり得た、盛雅の美作進出が有地氏の福田領侵略を呼んだ)。
 ここで前回までに触れることの出来なかった「福田遠江守」と「福田盛雅」の関係について私見を述べておく。

芦田町天満の北側より大谷城跡を望む

芦田町天満の北側より大谷城跡を望む

天正8年(1580)、美作医王山合戦で活躍した福田三郎左衛門尉盛雅を考察する場合、最大の難点は備後一宮吉備津神社に納められた、大永8年(1528)9月吉日の銘を有する「福田遠江守藤原盛雅」の西国順礼納経冊の存在だ。この納経冊があるばかりに、
 大永年間に活躍した「福田三郎左衛門尉盛雅」と天正8年の福田盛雅は別人としか考えられず、話をややこしくしてしまった。当時の慣習から盛雅が「三郎左衛門尉」から「遠江守」に任官することはありえても、その逆はありえないからだ。



備後一宮吉備津神社

備後一宮吉備津神社

秋の大祭風景

秋の大祭風景

現物を見ていないので、はっきりしたことは言えないが、この順礼納経冊には疑問点が多い。まず何よりも「大永八戌子年九月吉日」は「存在しない」ことだ。大永8年は8月20日に改元されて「享禄元年」となっている。正しくは「享禄元戌子年九月吉日」と書くべきなのだ。
 勿論、都から離れた備後のことだ。遠江守盛雅が「改元」を知らなかったということも考えられる。しかし、以前述べたように、盛雅は上洛したこともある当時の教養人だ。「都」の動きには敏感だったはずだ。
 当時、こうしたものは発注してから納品されるまで相当な「時間」を要した。やはり、この順礼納経冊は後世の偽作と考えるべきであろう。

協賛企業 株式会社 中国バス きもの工芸西陣
ココザ 社会福祉法人 みどりの町

備陽史探訪の会 313eクラブ 協賛広告・会員募集
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop 地図はこちらから