びんご 古城散策・田口義之

■利鎌山城と福田氏 (福山市芦田町福田)④      〈070〉

八幡神社 大鳥居

利鎌山城跡の麓に鎮座す八幡神社 大鳥居 (福山市芦田町)

毛利方の美作枡形城主、同医王山城代として活躍した福田三郎右衛門尉盛雅が備後国人であったことはわかった。
 問題は、永正・大永年間(16世紀前半)の史料に見える盛雅と、天正八年(1580)美作医王山合戦で毛利方の部将として活躍した福田盛雅は同一人物か否かである。
もし同一人物とすると、永正八年(1511)盛雅15歳と仮定すると、天正八年には盛雅は84歳の高齢になってしまい、ありえない話ではないが不自然である。また、大永八年(1528)を盛雅20歳としても、天正八年には72歳となり、やはり不自然である。
 盛雅の居城であった美作枡形城に関して、江戸期の地誌「作陽誌」は次のように記している。

八幡神社拝殿

八幡神社拝殿 (福山市芦田町)

福性院参道

福田氏の氏寺、福性院参道(芦田町)

福性院山門

福性院山門(福山市芦田町)

「升形城 
藤屋村にあり、小早川左衛門佐隆景、之を修築、福田玄蕃勝昌同助四郎盛昌をして之を守らしむ。(略)勝昌の弟に福田太郎左衛門あり、浮田直家に従い、兄弟相分かつ」
 つまり、地元の地誌は、枡形城に居城した福田氏は勝昌・盛昌(雅)父子で、勝昌には太郎佐衛門という弟がいて、兄と分れて毛利氏と対立した宇喜多氏に従ったと伝えているのだ。
 また、この伝えに関連して、「西備名区」は芦田郡栗柄村嘉山城主を「福田助四郎」とし、「一本古城記に。土生村淵上城主、杉原と戦いありて没落す。里人の言、今に櫓の台跡あり、弓懸畑と云う。没落の年紀しれず」と記す。助四郎は「作陽誌」に載せる「福田助四郎盛昌」であろう。
 美作枡形城主を福田勝昌、盛雅(昌)父子とする伝承が正しいとすると、当然、永正・大永年間の「盛雅」と、天正八年の美作医王山合戦で活躍した「盛雅」は別人ということになる。
 果たして「玄蕃勝昌」なる人物は実在したのであろうか…。
 状況証拠から見て、盛雅の先代という「勝昌」の存在は認めがたい。前に述べたように、美作での福田氏の活躍は、永禄十二年の新龍寺の仏壇を寄進した福田三郎右衛門尉からである。この三郎右衛門尉は盛雅と見て良い。

北面山福田寺福性院本堂

福田氏の菩提寺 北面山福田寺福性院本堂(福山市芦田町) 

美作地方は古く赤松氏が守護職を務め、同氏の勢力が衰えると、その家宰浦上氏の領国となり、更に天文年間には出雲尼子氏が勢力を及ぼし、天文二十年正式に「美作国守護職」に補任された(佐々木文書)。美作に於ける尼子勢力は強大で、毛利氏の勢力がこの国に及ぶのは永禄九年(1566)、出雲富田城が落城し、戦国大名としての尼子氏が滅亡して以後のことである。
よって、永禄九年以前に毛利氏の部将が美作枡形城に入るのは不可能で、勝昌の存在は認めがたい。
 では、「二人の盛雅」が同一人物であると認めてよいのかというと、これも推定年齢からして難しい(前述)、途中に入る「福田遠江守藤原盛雅」の存在を解決しなければならない。
今回は、この問題に触れるのはこのぐらいに留め、利鎌山落城と福田氏の美作進出の問題に稿を進めたい(続く)。

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