びんご 古城散策・田口義之

■利鎌山城と福田氏 (福山市芦田町福田)②      〈068〉

利鎌山城(とかやましろ)跡

利鎌山城(とかやましろ)跡を望む。

福山市内有数の規模と構造を持つ利鎌山城、城主の権勢も相当のものであったはずだ。
 城主が在名「福田」を名字としていたことは間違いない。宮原直倁の編んだ「備陽六郡志」外編、芦田郡福田村のところに、「古城二箇所 欠平 利鎌又戸鎌 両所ともに城主 福田遠江守 尼子毛利の節の事なるへけれとも、いつれの幕下といふ事しらず。瀬来伊賀、塩飽十次郎、市善次郎左衛門などというもの、遠江守の家臣なりしとぞ。其の屋敷跡、今に言い伝えて、アサとなれり。岡田氏の者あり、是家臣の末也とそ」とあり、福田村の古城、欠平、利鎌両城の城主は福田遠江守であったと記している。

亀山八幡神社拝殿

利鎌山城の麓にある亀山八幡神社拝殿。

亀山八幡神社の境内

亀山八幡神社の境内

福田遠江守の名前は「盛雅」であったようだ。「備後古城記」芦田郡福田村のところに、「利鎌山(戸かま山とも)福田遠江守藤原盛雅」とある。
福田盛雅は実在の人物だ。吉備津神社蔵の西国巡礼納経冊に、「大永八戌子年(1528)九月吉日 福田遠江守藤原盛雅」とある。おそらく「備後古城記」の記事はこの納経冊から取られたのであろう。
 また、高須杉原氏の家伝文書に、この頃のものと推定される福田三郎右衛門尉盛雅の書状がある。「民部卿」に宛てて、「彼の在所の儀」について異存がないことを述べたものだが、文中に「正法寺」「温井取次を以て」とあるところから、同じく高須杉原文書にある年不詳九月二七日付宮政盛書状(正法寺御同宿中宛)、同じく七月十日付宮實信書状(高須元盛宛)と一連のものだ。
 この一連の文書群は、永正初年、備後で勃発した木梨杉原氏と備後守護代山内氏との対立抗争事件に関連して、山内氏に味方した備後の実力者宮政盛、同實信が高須杉原氏に「三抱村」代官職を与えたものである。
 盛雅がこの件に関して如何なる利害を持っていたのか不明だが、「民部卿」「正法寺」が宛所になっているのは注意を要する。実は「民部卿」「正法寺」は、備後在国の関係者ではなく、京都南郊にある、「王城鎮護」の霊場、石清水八幡宮の「坊官」である。

絵馬

亀山八幡神社の本殿へ奉納去れている絵馬

要するに、これら一連の文書が発せられたのは「備後」ではなく、「京都」であったのだ。
 とすると、福田盛雅、宮政盛は共に京都に居たことになるが、戦国乱世の時代、備後の諸城主が京都に滞在することがありえたのか…。「ありえた」のである。しかもその年代は、木梨氏と山内氏が争った時期とぴったり一致する。備後の国人が大挙して上洛したのは永正五年(1508)のことだ。この年周防の大名大内義興は前将軍足利義稙を将軍職に復位させるために大軍を率いて上洛した。この軍勢の中に宮政盛、同實信がいた。福田盛雅もこの軍勢に属して上洛し、しばらく在京したと見て間違いない。
 そして、木梨氏と山内氏が、毛利・小早川氏の仲裁で和睦したのは永正九年(1512)のことだ。これら一連の文書が作成されたのはこの頃に違いない。そうすると福田盛雅は、初め「三郎右衛門尉」を称し、のち「遠江守」を名乗ったことになるが、果たして如何に…。(つづく)

利鎌山城の麓の集落の風景

利鎌山城の麓の集落の風景(福田)

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