びんご 古城散策・田口義之

■燧ケ城と南三河守(福山市芦田町)         〈063〉

燧ケ城跡

天満から火打ケ峠に向かう途中から見た燧ケ城跡 写真提供は田口義之先生

過日、有地氏と古志氏が争ったという、芦田町上有地の「横内」集落を訪ねてみた。
 芦田町の市立動物園を過ぎて、最初の信号を左折、まず前回までに紹介した鳥の奥・大谷城下の「天満」の交差点に出る。ここからははじめての道である。慎重に地図で確かめながら横内を目指す。「天満」の四つ角から右手に下る道を選び、直ぐの分かれ道で左折する。ここからは、あまり迷うことなく、10分ほどで、芦田と松永・尾道方面の分水嶺、「火打ケ峠」に達する。振り返れば、遙か眼下に芦田の山里がかすんでいる。

芦田の山里

「火打ケ峠地蔵堂」から遥か眼下に芦田の山里が見えます。

火打ケ峠地蔵堂

険しい山道を登りきったところで、「火打ケ峠地蔵堂」が見えてきました。

峠に「火打ケ峠地蔵堂」と呼ばれる四つ堂が建っている。同の正面に腰の辺りで真っ二つに折れた石の地蔵が安置されている。堂内に掲げられた説明板によると、この堂は室町時代の創建と伝え、享保20年(1735)再建の棟札があるという。
 今は通る人とないこの峠を、多くの人が行きかった時代もあったらしい。戦国の世も、何度か軍勢が往来したことであろう。
 峠を越え、鬱蒼とした竹林を潜ると突然視界が開け、「村」が現れる、「横内」だ。数えると7軒ばかりの農家が山際にへばりつくように建っている。多くは無人のようだが、棚田に水が張られ、田植えの準備が進んでいるところを見ると、まだ何軒かは住民がいるらしい。
 南を見渡しても人家は見当たらない。全く山中に孤立した集落だ。だが、かつては交通の要所であった。村はずれで道は二股に分かれ、右に行くと尾道市原田町、左に行くと、10分ほどで古志氏の本拠、大場山城下に出る。ここは古志氏にとって何としても確保したい土地であったろう。

火打ケ峠地蔵堂の由来。

火打ケ峠地蔵堂の由来。

相撲取りに投げつけられ、腰が二つに折れたという地蔵さま。

地蔵堂の前は広々とした草原

地蔵堂の横には石碑がありました。

キキョウの花

今回の調査のもう一つの収穫は、今まで幻とされてきた「燧ケ城」の場所を特定できたことだ。天満から火打ケ峠に向かう途中、右手に押しかぶさるように迫る山が気になった。これが燧ケ城(ひうちがじょう)であった。地元の郷土史家内田重徳さんによると、「本丸、二の丸、三の丸跡も残り当時としては有秀な山城であった」(芦田町散策)という。
 「燧城 或云南三河守ここに住すと」という『福山志料』の記載も現地に立つことで理解できた。
 南三河守は名を「景久」云い、小早川隆景の家臣であった。毛利の時代、古志も有地も隆景の支配下にあった。景久は有地・古志の争いに際して、仲裁のため、隆景が派遣した人物と見て間違いない。
 また、燧ケ城に、楢崎氏が在城したという伝承(芦田町散策)も、当時の史料をひも解くとありえない話ではない。永禄12年(1569)8月、備後神辺城が藤井皓玄に乗っ取られ備後南部に動揺が走った際、毛利方の楢崎豊景が木梨・有地の両城に兵を入れ、周辺の動揺を鎮めたという記録がある(閥閲録53楢崎筑後守断書)。燧ケ城は古志氏との境目であると共に、西南に山を越えれば「木梨領」だ。豊景が兵を入れた有地氏の城というのはこの城のことであろう。訪ねてみたい山城の一つだ。

峠を超え

「火打ケ峠地蔵堂」の峠を超え、鬱蒼とした竹薮を右下へ降りると谷間の中に民家が見えてきました。しかし、住んでいる人はほんの小人数。バイクで郵便屋さんが通りかかり、ここから先はダメです。やっとの思いでユウタウンしました。

細い山道

横内から松永へはこの細い山道が必要だったのでしょう。

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