びんご 古城散策・田口義之

■新山城と桑原氏 (福山市駅家町服部)           〈060〉

新山城跡

南から見た新山城跡  手前が服部大池

芦田川の支流服部川の流域に広がる服部の谷は、古来備後でもっとも栄えた地域の一つだ。
 古墳時代、この谷の出口付近には大迫金環塚と北塚と言う二つの注目される古墳が築かれた。
 私事になるが、私の郷土史の記憶は、この金環塚から始まっている。
 小学校の遠足でこの古墳を訪ねた。暗い大きな石室が印象的で、中から蛇が出て来たのが記憶に残っている。7世紀に入った頃の築造で、綺麗な切石で築かれた石室は、地方では稀なものだ。郷土史に関心を持つようになって訪れた北塚も地方では珍しいものである。
 北塚は、以前から盛土を失い、石棺が地上に露出している。外見から、古墳時代最末期の「家型石棺」と言われるが、石棺にしては石室が無く不自然だ。よってこれは石棺ではなく「石槨」だという意見もある。

服部大池

南方に大きく広がる服部大池

田園風景 田園風景

新山、大坊福盛寺に向かう入り口辺りの豊かな田園風景

北塚が石槨ということになれば大変だ。切石の「石槨」を持った古墳は奈良県と大阪府のごく一部にしか存在しない、その代表があの有名な高松塚だ。
 中世になっても事情は同じだ、いや、この地域が最も栄えたのは鎌倉から室町の中世だったかも知れない。中世は、権力が最も分散した時代である。大規模な灌漑事業は無理であった。勢い天水や谷川などを灌漑に利用した「谷田(やとだ)」が農耕の中心となる。服部は、本郷・雨木・助元・永谷・新山の旧五か村で構成されるが、いずれも中世以来の谷田地帯である。
 鎌倉幕府が開設されると、この地域にも御家人が地頭として入ってきた。
 服部谷に最初に姿を現したのは土肥氏と梶原氏だと言われている。梶原氏は幕府内の抗争で早くに姿を消したが、土肥氏の一族は桑原氏や光成氏となって、以後長く在地の豪族として活躍し、各地に山城の跡を残した。今回紹介する新山城もその一つである。
 私にとって、新山城は永らく幻であった。「備後古城記」などには記載があっても、明治以降紹介した書物がなかったためだ。私は、最初この城は大坊福盛寺の山続きにあると思い、何度か調査を試みた。がそれらしい跡は見つからなかった。或いは、山岳寺院である大坊のことを指しているのではなかろうかとも思ってみた。
 ところがその跡は意外なヒントからあっけなく見つかった。今まで「新山」と言えば、大坊のある集落とばかり思い込んでいたが、旧新山村の領域は谷の中心服部川の左岸にまで及んでいた。となると、服部の出口、大池の北に谷の出口をさえぎるように、西から東に突き出た小山が気になる。

新山城跡の麓

新山城跡の麓から石段は城跡まで続く。

神社

城跡には現在神社が祀られています。 山はあまり高くない。

拝殿の廻り 拝殿の廻り
拝殿の廻り

拝殿の廻りは、きれいに整備してあり、晴れやかな感じです。

本殿

本殿は古の風格を保ち、何かを伝えようとしている感じでした。

数年前、機会を見つけてこの山に登って見た。山の西の鞍部を新しく設けられた舗装道路が通り、道に面して天満宮の鳥居が建ち、石段がまっすぐ山頂に伸びている。新山城は廃城後、神社の境内地となっていたのだ。これでは永らく山城の跡と認識されなかったはずだ。
 神社の境内地となってはいるものの、曲輪跡などは良く残っている。詳しい調査はまだだが、本丸以外にも数段の曲輪跡が認められる。城の南北と東は絶壁状に麓に落ち込んでいる、間違いなく中世の山城跡だ。因みに、最初に紹介した大迫金環塚古墳は、城跡から舗装道路を挟んで反対側の山麓にある。
 城主は、以前に紹介した椋山城の桑原一族だという。桑原氏は、本城椋山城の南方に、この城を構え、服部谷の南部を支配したのであろう。
最後の城主は、桑原越中守元可と伝わっている。元可は宮氏の家老で宮下野守元信三世の孫であったが、天文3年(1534)の宮城合戦後毛利氏に従い、子孫は長州へ移ったという(西備名区)。

長閑な風景 城跡

ゆっくりと城跡を背にしておりました。 西の方向より城跡を眺望した長閑な風景

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