びんご 古城散策・田口義之

■木之上城と金尾氏 (福山市神辺町東中条)       〈057〉

木之上城跡

神辺町東中条の奥深いところに木之上城跡の姿を見つけました。

古代山城「茨城」のところで触れた神辺町中条と三谷の境にある木之上城は、数ある中世山城の中でも知られた存在である。城主を金尾氏と言う。
 私が初めてこの城の存在を知ったのは高校生の頃のことである。同級生に神辺町中条の金尾君がいて、先祖がこの城に居城していたと話してくれた。その後も「金尾さん」にお会いする度に木之上城の話が出て、中には「瓦も出るんど…」と自慢げに語る方もいた。
 最初「瓦云々」の話は「眉唾物」だと思っていたし、城の由来なども城主に関する詳しい史料もなく、「大した城跡ではあるまい」と思っていた。

道案内

集落を越え道案内に沿って行き止まりまで車を走らせます。

城跡への登り口 祠

城跡への登り口です。

登山口から程なく祠が建っています

この木之上城に対する認識が一変したのは、昭和55年に「備陽史探訪の会」を立ち上げ、2年目の昭和57年、「2月例会」として登った時のことだ。
 厳冬期で木の葉の落ちた山中は見通しが利き、この日初めて「古瓦」が出土する場所も確認した。
 城跡は広大なものであった。中条谷の最奥部「木之内」の集落で車を捨て、登山道に入る。登り口にお堂があって、その傍には平安期に遡ると推定される層塔の残欠が立っている。道は登りやすい山道で10分も歩くと山上の鞍部に到着する。道はここで左右に分かれ、右に行けば城の本丸、左に進むと山頂のお堂に到達する。古瓦出土地は、山頂のお堂から30メートルほど下がった南面した一角で、今でも建物の礎石がはっきりと確認され、「布目瓦」の破片が転がっている。かつてこの場所からは「天仁」年号が刻まれた瓦が出土したとされ、平安後期の天仁年間(一一〇八〜一一〇九)には山上に寺院が建立されていたことが判明する(『神辺町史』前編)。
 右手に進むと城の用水に使用されていたと言う石垣作りの「池」の側を通って「馬場」と呼ばれる広大な平坦地に出る。城の本丸は、この馬場の中央に突き出たような一段上の尾根上にあり、馬場との間は数段の連絡用の曲輪で結ばれている。

お堂の裏側 寺院塔石

祠の裏側に、何やら祀られていました。

しばらく登ると寺院塔石がありました。

「馬場」で注目されるのは、平坦面の西側(谷側)に存在する「石列」だ。この石列は、大きなものでは2メートル四方、小さなものでも1メートル四方の巨石が南北に30メートルほど一直線に並んでいる。石と石の間は1メートルほどで、石の上面はほぼ水平である。石列は曲輪の端から2メートルほど内側に存在し、用途は全く分らない。また、この曲輪の東西には少し下がって「円形石組井戸」が存在する。中でも東側の井戸は、今でも水が枯れることはない。最近地元の人が井戸浚いをしたところ、底から漆塗りの「お椀」が発見され、鑑定の結果、室町中期のものと判明した。
 中世の城跡は、馬場から南に「狸城」と呼ばれる一段高い曲輪から西と南に曲輪が築かれ、その下は絶壁状に山麓に落ち込んでいる。「狸城」からの眺望は絶景で神辺平野から更に井原方面まで広く見渡せる。

神辺平野

山の中腹から右下を見ると神辺平野を眺望できました。

岩石 雑草

七合目ぐらいから更に登りましたが、道は動物が歩く程度、岩石と雑草に覆われて、これ以上は危険を感じ断念しました。

この当りより下を眺めた山並み

この当りから下を眺めた山並み。


城主金尾氏に関する記録で最も古いのは、金尾遠江守が一族の菩提寺として建立したとされる神辺町三谷の龍華寺に関するものである。「水野記」によれば、同寺の創建は宝徳元年(一四四九)とあるから、この頃には木之上城と金尾氏は存在していたはずだ。
 だが、金尾氏の存在は以後天正十一年(一五八三)まで杳として知れない。同年の毛利氏の記録に「筑州(豊臣秀吉)書状取り候つる金尾と申す者」と出て来るのが、金尾氏に関する唯一つの記録である。
 立派な城跡と曖昧な城主の伝承…。或いは金尾氏は城山の北、三谷にあったと言う「銀山」を支配した一族であったのか、もしそうであれば財力は相当なもので、城の規模に見合う存在となる。真実は果たして如何、今後の研究に期待したい。

山の頂上をアツプで

城山の麓に戻り、山の頂上をアツプで眺めました。地元のお方のおっしゃる通り、最近は人が高齢化した上に、若いお方が居らないので山は荒れ放題です。残念な事です。良い方法はないものでしょうか。

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