びんご 古城散策・田口義之

■宿久茂塚と有地玄蕃(福山市芦田町福田)        〈037〉

宿久茂塚

福山市芦田川の福渡橋より約1km福山よりの芦田川土手より、左下向うに宿久茂塚を望む

石段の参道 大きな樹木

森の下、南口より石段の参道を登る。

登り口の所に大きな樹木があります。

神社

石段を登りきると神社が有ります。大山祇神社、艮神社、荒神社の三社を祀ってある。

宿久茂塚と有地玄蕃
 各地の城跡を見てまわっていると、驚くような小規模な山城跡に出くわすことがある。今まで見た中で、一番規模が小さかったのは、世羅町堀越の「月山城」だろう。高さ20メートルほどの円錐形の小山の山頂に神社があり、平らになっている。よく見ると社の背後に土塁がある。確かに山城の跡だ。『芸藩通志』をひも解くと、小寺十郎左衛門の居とある。
 福山市内にも、小さな山城跡が残っている。新市の柏周辺と、宮内の「一宮さん」の周りには、小さな山城が密集する。何れも50坪ほどの曲輪に10坪前後の小曲輪が付属するだけの簡単なもので、単独では意味をなさない。だが、柏の城郭群などは、全体で見ると規模雄大な山城の群れを構成し、一つの山城として機能していたことがうかがえる。記録を見ると、備後最大の豪族、「壱萬六千貫の宮殿」と呼ばれた宮氏の惣領、宮下野守が、応仁文明の乱の最中と、永正18年(1521)にこの城に立て籠もったことが知られ、全体が宮氏の本拠として機能していたことがわかる。一宮さん周辺の山城も宮氏が築いた城塞群のひとつであろう。

本殿 境内の大木

修復工事並びに奉鎮祭をされたばかりの本殿

境内の大木(樹齢何年?)

境内 思いの外広い

境内は写真のように思いの外広い感じです。

柏や宮内の小さな山城を除くと、福山市内で最も小規模な山城は芦田町福田の「宿久茂塚(すくもづか)城」だろう。山城といっても、高さは5メートルほどしかなく、北30メートルのところにある芦田川の土手の高さと変わらない。だが、現地を訪ねてみると、紛れもなく戦国城塞の跡である。
 芦田川の土手から見ると、単なる小さな「森」にしか見えないが、確かに小山となっていて、頂きに神社がある。南から参道を登ると、左右に「土塁」が見られる。さらに、神社の背後にも土塁が残り、確かに城郭として使用された痕跡がある。目を凝らすと、小山の中腹には「切岸」と考えられる加工の跡が残っている。「切岸」は、中世山城を観察する場合、最初に確認しなければならない遺構で、人工的に崖を造ったものだ。
 このように、小規模とはいえ、この城は「切岸」「土塁」「曲輪」を備えた立派な山城だ。

森の下 ビニールハウス

森の下に広がるビニールハウスや、畑です。

現地に立って見ると、北に芦田川が流れ、周囲は広々とした美田が広がり、「見張り用」の砦としては格好の位置を占めている。
 戦国時代、芦田町一帯を支配した有地氏の伝承を記した『相方城主有地殿先祖覚』によると、野心に燃える有地隆信は、隣接する福田の領主福田氏を討って同地を併呑し、「福田才町すくも塚と申すところ」に弟の有地玄蕃を「押さえ」として置き、自らは居城を大谷城に移したという。
 大谷城は芦田町の中心に聳える大規模な戦国山城だ。隆信は大谷に居城を構えると共に、北方の押さえとして、この城を築き、実弟を城番として置いたのであろう。
 だが、立地規模から見て、長く使用されたとは考えがたい。有地氏は、その後、新市町の戸手から駅家町の近田辺りまで勢力を広げているから、有地氏の勢力拡大と共に自然に廃城になったと考えられる。

大木 大木

境内には沢山の大木が勢いよく立ち並んでいます。

宿久茂塚の森

古い大木で囲まれている宿久茂塚の森

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