びんご 古城散策・田口義之
鷲尾山城跡(釈迦が峰山城) (尾道市木之庄町木梨)  〈022〉
鷲尾山
木之庄町木梨から見た鷲尾山です。
 尾道は、中世、世羅台地に広がる大荘園「大田庄」の倉敷地として発展した港町だ。古来よりこの港町の「富」をめぐって権力者たちがしのぎを削ってきた。足利尊氏、長井氏や山名氏などの備後守護、そして毛利氏。その中にあって在地の豪族であった木梨の杉原氏が一時この地を本拠とし、山城を築いたのはあまり知られていない。観光の寺千光寺のある山がそれだ。千光寺山城とも大宝山城ともいう。ただし、杉原氏がこの地に本拠を置いたのは天正年間のわずかの期間であった。当時、尾道は瀬戸内有数の港町であった。瀬戸内の覇権を握っていた毛利氏はなんとかこの港町を直轄地としようとした。そして、木梨杉原氏の勢力を力で押さえつけ、この港町を自分のものとした。天正一九年(一五九一)のことだ。   
惣門跡 五輪塔の墓石
城山の麓で「惣門跡」鷲尾山へ登る案内標識
少し登ると左側に鷲尾山城に関係した人達の五輪塔の墓石があります 
浄正庵 鷲尾山城跡の案内板
杉原氏の菩提寺と伝わる浄正庵。

鷲尾山城跡の案内板(ここより山の途中まで車で行かれます)
坂道 階段
いよいよ山に登る小道。わりと歩き安い坂道

しかし、下りる時は石ころで滑り易く二回も尻餅をつき、靴が脱げたりして、大変でした。
 尾道を追われた木梨杉原氏は、もとの居城、木梨(尾道市木之庄町)の鷲尾山城に帰った。だが、同氏にとって故郷ももはや安住の地ではなかった。尾道に木梨杉原氏の影響が残るのを嫌った毛利氏は、翌文禄元年(一五九二)、木梨氏が毛利を裏切って、秀吉の旗本になろうとしたという理由で、同氏の領地を没収、木梨氏は一族離散の運命となった。
祠 本丸跡の案内板
登りきった所は本丸跡です。現在は萱が2メートル位に伸びていて、降り口が分らなくなり、しばし迷いました。本丸の跡にはこのような祠があり、櫻の木や、もっと大きい木がたくさんありました。 
本丸の跡 萱の少ない場所
祠の前に古木があり、立派な石に本丸の跡と刻まれています。
本丸の跡 この場所は萱の少ない場所
 木梨の里に今も聳える鷲尾山城は、悲運の城だ。戦国百年の間、三度も落城している。戦国初期、城主木梨杉原氏は尼子に味方して一家の勢力を拡大しょうとした。だが、尾道に領地を持っていただけに大内氏の反撃は凄まじいものがあった。そして、結局落城、同氏は大内氏に屈服する。ところが、こんどは尼子が許さない。天文一二年(一五四二)、大内氏の大軍を月山富田城下で撃退した尼子勢は余勢を駆って備後南部に侵攻、鷲尾山城は落城した。三度目の落城は元亀三年(一五七二)のことだ。天文一二年の落城後、木梨氏は大内氏の後援を得て城主に復帰していたが、今度は、隣の三原市深町の領主石原氏が木梨領を虎視眈々と窺がっていた。そして、この年城方の隙を見て城を乗っ取った。結局、石原氏との戦いは木梨氏の逆襲が成功して城は再び木梨氏のものとなったが、その城も文禄元年以後、再び木梨氏の手に戻ることはなかった。
本丸跡を少下りたところ しるし
本丸跡を少し下りたところに(郭)三段、四段、五段、六段、のしるしが立てあります。
山城探訪書 平地
山城探訪(備陽史探訪の会)書提供

郭、六段のところは平地で奥へ広がっています。
南側 北部の風景
本丸跡は鬱蒼としていて見通しが悪く,少し下りたところより南を見た景色。
北部の風景

石垣 古井戸
古井戸の周りは石垣になっていました。
五段目あたりに古井戸があり昔をしのばれます。
鷲尾城跡取材同行記
地図はこちら

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