びんご 古城散策・田口義之
八尾山城跡 (府中市出口町)         〈018〉
八尾山城跡
府中天満屋の屋上より八尾山城跡を望む
 JR府中駅に降り立つと、北に三角形の秀麗な山を目にする。杉原氏惣領家の居城として有名な八尾山城跡である。城跡を訪ねるには、庄の池の傍らを通り、府中八幡神社参道から、城跡に設けられた妙見社への登山道を利用する。同社は城跡南端に位置し、ここまで来れば山頂本丸へはあと一息だ。
本丸は、標高345メートルの八尾山山頂を削平して築かれ、南北約60メートル、東西約20メートルを測る。本丸の北西は、一段下って長さ40メートルの細長い平坦地が伸び、その西北には幅3メートルの堀切を設けて尾根続きを断っている。本丸の南は四段に削平され、最下段が妙見社の境内だ。東西に伸びる尾根上にも多数の曲輪が設けられ、府中市内では傑出した規模を持っている。   
府中八幡神社 府中八幡神社
府中八幡神社(正面)
府中八幡神社(横から見た社)
天満宮〈府中市無形文化財指定〉 急な小道
境内の右に天満宮〈府中市無形文化財指定〉
天満宮の右手より急な小道を山に登ります。
綺麗に行き届いた道 歴史の小道の案内版
綺麗にそうじの行き届いた道です。
歴史の小道の案内版
 
 八尾城跡は、古くから人々の関心を引き、各種の文献に記述が見られる。最も古いのは、近世初頭に著された『備後古城記』で、芦田郡出口村八尾城として、山名伊豆守清氏・宮田備後守の名が書き上げられている。最も詳しい記述を残しているのは、『西備名区』だ。同書を開くと、芦田郡出口村八尾山城として、「当城は日呑山の南方半腹にさし出たる孤丘也 此城地に上る道八つあり麓に流尾八ツあり故に八尾城と言う」と、まず城名の由来を挙げ、続けて「杉原伯耆守光平 鎮守府将軍平貞盛後胤鎌倉殿へ仕へ頼家将軍より備後守護を賜り当城を築て住す」と記し、以下員平・忠綱・親綱・時綱・光房・直光・満平・光親と続く歴代城主名を挙げている。
湧き水の水飲み場 鳥居
7合目あたりに湧き水の水飲み場が有ります。
「妙見山」と書いてある鳥居。もう少し

 初代城主と伝わる杉原光平は、『尊卑分脈』を初めとする杉原氏系図が、杉原姓の元祖としている人物だ。父祖については各系図で異動があるが、最も古い『尊卑分脈』によると、平貞衡六代の孫桓平の次男にあたり、「杉原流の祖」とある。また同書によると、父桓平は「文治五年奥州合戦之時御供仕抽忠勤」とあるから、鎌倉時代前期の人物だ。鎌倉末期になると杉原氏の活躍が史上に現れて来る。嘉元3年(1305)3月、幕府は、世羅郡太田庄山中郷公文の年貢抑留を究済するよう、土肥六郎と杉原右近将監に命じているが(高野山文書)、この右近将監は年代から見て七代時綱に違いない。さらに南北朝時代に入ると、八代光房は備後守護と並んで幕府使節として活躍しており、この時代には同氏の勢力は守護に比肩するほど強勢であった。そして、将軍義満の頃になると、同氏は将軍奉公衆として現れるようになり、この時代になっても同氏は守護の下風に立つことを潔しとしなかった。しかし、鎌倉以来を誇った同氏も応仁の乱以降は衰退の道をたどった。杉原氏一族は同乱で東軍の備後守護山名是豊に属しており、是豊の没落と共に同氏の勢力も失われていった。このことを示すのが宮田備後守の八尾在城である。備後守は教言といい、西軍方の備後守護代として、是豊追放の立役者となった人物だ。教言の八尾山在城は、西軍方に対する杉原氏惣領家の屈服を示している。
妙見社 広場
八尾山山頂 広々とした広場です。これが「妙見社」です。
広場はきれいに掃き清められており、休むところが一杯あります。
見晴らし絶好 府中の街
流石にすばらしい眺めです。
府中の街がよく見渡せます。
 杉原氏惣領家は、明応2年(1493)の杉原伯耆守(東山時代大名外様付)を以て史上から消える。これを同氏の没落と見る向きもあるが、早計であろう。『備陽六郡志』等に、戦国期神辺城主として備南に覇を唱えた杉原理興は、元八尾山城主であったとあるから、同氏は理興の代に神辺城に移ったと考えられる。こうして300年間備後の中心的な城として繁栄した八尾城も廃城となった
案内板
八ツ尾城跡の案内板
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