びんご 古城散策・田口義之
掛迫城跡 (福山市駅家町法成寺)      〈017〉
掛迫城
北部工業団地側から掛迫城を望む
 神辺平野の北縁を限る丘陵の一角、駅家町法成寺字掛迫に「掛迫城」とよばれる中世の山城跡が残っている。県立の北自立支援学校から西北に五百メートルのところに位置する城跡で、麓からの高さは60メートル位だろうか、晩秋になって木々の葉が落ちる頃になると、麓からくっきりと3段に平に削られた城跡を望むことが出来る。以前は、南麓の土井と呼ばれる谷から登ったが、現在は北側の北部工業団地側からの方が道が整備されて登りやすい。法成寺から工業団地への道路の登り口付近で右手の谷あいに入り、二つ目の池の土手際に車を止めて城跡を目指す。各所に地元のライオンズクラブが立てた案内板があるので楽だ。この北側の谷は「城ケ谷」と呼ばれる城の搦め手にあたる場所で、池の名も「城ケ谷池」と呼ぶ。   
大きな池 案内標識
掛迫城の直ぐ下に大きな池が有ります。
池の辺に城跡と古墳の案内標識が有ります。
曲輪 本丸へ
急な坂道を登り切ると2段目の曲輪に到達。
左手の小道(これも急斜面)を本丸へと進みます。
 
 北の登り口から本丸を目指すと、まず2段目の曲輪に到達し、ここから更に左手の小道を登ると本丸だ。約200坪の本丸は、地元の町内会の皆さんの手で綺麗に整備され、桜が植えられている。私も花見時に登ったことがあるが、本丸から桜を愛でながら眺める景色は素晴らしい。本丸の一角に「宮周防守」と刻まれた石碑が苔むして立っているが由来はよくわからない、城主を祀っているのだろうか、地元の人に聞くと「稲荷さん」だという。城跡は2段目から下にも細長い曲輪が残っているが、この部分は雑草が茂り見学不能である。本丸から東北の尾根続きには見事な「空堀」と「土塁」が残っている。尾根続きから攻め寄せる敵に備えたのであろう。空堀の見学は本丸から直に降りていくことも出来るが、それよりも一旦北の登り口に降り、右手の道から行く方が無難だろう。一見の価値ある遺構である。
本丸跡 「宮周防守」の石碑
広い本丸跡へ到達。かなり広い。見晴らしも良く素晴らしい
「宮周防守」の石碑

 本丸の石碑に「宮周防守」とあるように、城主は備後最大の豪族宮氏の一門だ。この城に居城した宮氏は、地名の「法成寺」を取って「宮法成寺」と呼ばれた。このように分家した者は、土着した地名を名字にする場合が多く、宮氏の一門もそれぞれ在名を取って「有地」「高尾」「久代」を名乗った、掛迫城の宮氏もその一人であった。
 宮氏の一門がいつ頃法成寺に土着したのかは不明だ。最初にその名が史上に現れるのは応仁の乱の頃だ。当時、「法成寺尾張守」は西軍の山名宗全の手に属し、京都の相国寺お花坊の合戦で、東軍方の渡辺信濃守と戦ったことが記録に残っている。下って天文年間(十六世紀前半)、宮法成寺尾張守は尼子方として『天文日記』に登場する。「天文日記」は、石山本願寺の証如上人の自筆日記で、天文6年(1537)から同8年(1539)にかけて、尼子方の武将の一人としてその名が見える。
本丸跡の周辺
本丸跡の周辺 (200坪) この石碑の左側奥より竹薮になっておりました。
 だが、尼子氏に味方したことが、掛迫城と宮法成寺氏の運命を狂わせた。天文10年(1541)、尼子氏を一代で西国最大の大名とした尼子経久が亡くなると、尼子は斜陽の道をたどり、25年後の永禄9年(1566)、毛利元就によって攻め滅ぼされた。この付近でも尼子方の神辺城は大内毛利の連合軍の猛攻を受けて、天文18年(1549)遂に落城した。尼子方の掛迫城にも戦禍が迫った。そして、翌天文19年8月、大内方の攻撃を受け、城は焼き払われ、城主宮法成寺氏は滅亡した。地元の人にお聞きすると、今でも城跡を掘ると焼けた米が出てくるという。『備後古城記』などによると、最後の城主は「宮治部大輔勝国(勝岡ともいう)」で、直ぐ南にあっ小井城の城主宮兵部大輔勝信と共に華々しく戦ったが、衆寡敵せず、城を枕に討死したという。
駅家町側 新市町側
本丸跡から南西を望めば、駅家町、新市町へと町並は続く。
地図はこちら
キングパーツ株式会社 笠岡マルセン開発(株)
(株)福山臨床検査センター 社会福祉法人 みどりの町

備陽史探訪の会 313eクラブ 協賛広告・会員募集
バックナンバー HOME クラブTOPへ ▲PageTop