びんご 古城散策・田口義之
要害山城跡 (福山市神辺町徳田)      〈016〉
要害山城跡
要害山城跡の麓より望む
 神辺平野の中心からやや東よりに位置する独立丘陵の西側の主峰、標高95.9メートルの要害山の山頂に存在する中世山城跡で、山頂を南北約40メートル、東西30メートルにわたって楕円形に削平し、周囲を二重の土塁と、その間の空堀によって取り囲んだだけの簡単な構造だが、細部には「升形門」の型式を持つ虎口跡など、戦国期の山城としては極めて興味深い遺構が残っている。   
要害山城跡主郭平面図 天満神社の案内版
要害山城跡主郭平面図
要害山城跡へ登る目印の天満神社の案内版
天満神社 要害山城跡の麓には天満神社
要害山城跡の麓には天満神社があります
 
 山頂主郭を取り囲む土塁は、上端幅約1メートル、高さ内側約0.5メートル、外側約2メートルを測り、塁線は複雑に屈曲して、所謂「折」(横矢掛り)を形成している。折は、塁線に死角を無くすために考案された築城法で、近世に完成する極めて高度な技術だ。当城の場合、折は全周にわたって見られ、屈曲部に立つと左右の塁線を横に見渡すことが出来、単純な縄張りに、いかに変化を持たせようとしたか、築城者の苦心が察せられる。 内側の土塁と、外側の土塁の間は、上端幅約5メートル、深さ約2メートルの空堀となっている。普通、当地方の山城の場合、空堀は尾根に直交した堀切が一般的であるが、この城では、主郭を取り囲む「横堀」となっている。横堀も近世城郭に多く見られる築城法で、堀底を通路として利用することによって、防御力の向上を図ったものだ。また、虎口に「升形」の型式を取り入れていることも注目される。升形は、城の出入り口に方形の小空間を作ることによって城門を二重にし、防御力の強化を計った比較的新しい築城技法だ。この城の場合、虎口は北・東・西の三カ所に見られ、何れも升形門の型式を取っている。特に東のものは遺構の残りが良く、戦国期の升形門として典型的なものだ。
石鎚神社 天守閣跡
要害山城跡には、石鎚神社が祀られています。
要害山城跡 天守閣跡

 要害山城跡は、西麓に天神社が鎮座することから、「天神山城」として江戸期の文献に紹介されている。城主は宮若狭守、同民部左衛門と伝え、一番詳しい『西備名区』は、「宮若狭守は、本来新市亀寿山城主で、同城の落城後、この城に居城したのであろうか。しかし、同人の名前は各所に残っているから、この城に居城したのではなく、この辺りも宮氏の領地で、その名を伝えたものであろう」と考察している。宮氏は、戦国初頭までこの付近に勢力を持った有力豪族で、当城が同氏によって築かれたとする伝えは理由のあることである。しかし、今日残る遺構を見ると、折・横堀・升形等、戦国中期以降の様相を色濃く残し、宮氏が居城したと伝える年代と若干のずれがある。
天守閣跡の周辺 広島県立神辺旭高等学校
天守閣跡の周辺
要害山城の麓には広島県立神辺旭高等学校があります。
 記録の上で、周辺が大きな戦乱の渦に巻き込まれたのは、天文年間(1532〜55)の神辺城合戦だ。『西備名区』によると、この戦いで攻城側の大内・毛利の連合軍が本陣を置いたのが、当城南麓の「秋丸」で、秋丸の名は安芸衆(毛利)の本陣に因むという。当城の土塁上に立って南方を望むと、合戦の舞台となった神辺城は指呼の間である。また、東西の虎口は、南方から城兵の出入りが見えないように工夫されている。これらのことから、当城は室町後期、宮氏によって築城されたとしても、現在残る遺構は、この神辺合戦に際して、攻城側の向城として使用された時のものと考えられる。城跡は神辺旭高校の裏山に当たり、西側に鎮座する天神社から徒歩10分で上ることが出来る。
神辺の街並を望む 南西に延びる神辺の街並
要害山城跡より神辺の街並を望む
要害山城跡より南西に延びる神辺の街並
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